マルタ共和国
マルタ共和国(マルタきょうわこく、Malta(MT))とは、地中海のほぼ中央に位置する島国である。ヨーロッパの南端に位置する。
概要[編集]
政体は共和制。国土面積は316平方キロ(日本の小豆島の約2倍)。人口は2011年の時点で40万8000人。人口密度は1292人/㎢。首都はバレッタ。国名の由来は紀元前2000年頃にフェニキア人の地中海貿易の基地として植民されたことから、フェニキア語の「melita(避難所を意味する)」が転訛したものである。
歴史[編集]
概略[編集]
この地域は古代からフェニキア、ローマ帝国、イスラム帝国、オスマン帝国などのその時代における強国による支配を受けてきた。それほど大きな島ではないのだが、この島は古来より「地中海の臍」と呼ばれて、地中海交通の中継地として多くの周辺国の人間が植民していった。
近世[編集]
1530年、ロードス島からオスマン帝国に追い出されたヨーロッパの十字軍であるヨハネ騎士団(のちのマルタ騎士団)が支配下に置いた。当時、オスマン帝国の勢力拡大はヨーロッパにとって大いに脅威となっていたが、ヨハネ騎士団はその強大なオスマン帝国軍を3世紀にわたって撃退し続け、オスマン帝国の地中海占領を阻止した。
19世紀[編集]
1814年にイギリスの支配下に置かれる。これによってヨハネからマルタに改まっていた騎士団は、1839年以降は領土を持たない亡命政権としてローマに本部を置くことになる。なお、この亡命政権に対して1986年に当時のマルタ労働党政権が、サンタンジェロ要塞の小島を騎士団の領土として割譲する意向を表明していたが、翌年に労働党政権が崩壊してマルタ国民党政権が誕生すると、この領土交渉は一切が抹消されることになった。
第一次世界大戦[編集]
その後、マルタはイギリスの支配下の下で地中海における海軍基地として発展した。1917年、第一次世界大戦中に日本は日英同盟に基づいて日本海軍艦隊を地中海に派遣して、軍輸送船の護衛任務に従事していたが、クレタ島沖で魚雷攻撃を受けて大破し、その際に71名の戦没者を出している。この戦没者の慰霊碑は現在もカルカラの英軍人基地内に建立されている。
第二次世界大戦[編集]
第二次世界大戦では王立空軍が基地を設置して地中海防衛のためにイタリア軍と戦った。1940年6月10日、イタリア王国はグレートブリテン及び北アイルランド連合王国に宣戦布告直後から空襲を開始した。シチリア島からわずか軍用機で30分程度の距離であり、イタリア軍にとっては大きな脅威である。
詳細は「地中海航空戦」を参照
現代[編集]
1947年にイギリスから自治政府の設立が認められた。1964年9月21日にイギリス連邦の一員として独立した。1971年、非同盟中立のマルタ労働党政権が誕生すると、イギリスとの防衛援助協定を破棄した。これが原因で8年後の1979年にマルタに在留していたイギリス軍は全面的に撤退した。一方、1974年には共和政に移行している。
1984年にはリビアと友好条約を締結するなど、冷戦下の世界において東寄りの外交路線を当初は鮮明にしていた。しかし経済情勢の悪化によって国民から西側との外交路線に転換する声が高まって、1987年には政権交代が行なわれてマルタ国民党によって以後は西側外交路線に切り替えられる。そして1989年には冷戦の終結を宣言した歴史的なアメリカとソ連による米ソ首脳会談、いわゆるマルタ・サミットがこの国で行なわれている。
2004年には欧州連合(EU)に正式に加盟。2008年1月にEU単一通貨であるユーロを導入した。
地理・気候[編集]
地中海の中央に位置し、マルタ・ゴゾ・コミノの石灰岩質の3島からなる小国家である。典型的な地中海性気候で、降水量は冬季が最も多い。
首都・バレッタの年平均気温は18.7度で、最高気温が8月の26.3度、最低気温は1月の12.3度であり、年間降水量は640ミリである。
経済[編集]
この小国家の主要産業は絹織物、食品加工、造船などの製造業と観光業である。特に観光には近年は力を入れており、2008年の統計では年間130万人の観光客が訪れている。なお、日本との関係においては地中海マグロの養殖が8割以上の輸出で占められていることで知られている。
宗教[編集]
住民[編集]
- マルタ人が96パーセント。
言語[編集]
通貨単位[編集]
国内総生産[編集]
- 1人当たり国内総生産は1万9746米ドル(2010年)
関連項目[編集]
参考文献[編集]
外部リンク[編集]
- 政府
- 日本政府
- 日本外務省 - マルタ
- 在イタリア日本国大使館 - 在マルタ大使館を兼轄
- 地域情報
- 観光
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