ソロモン諸島
ソロモン諸島(ソロモンしょとう、Solomon Islands(SB))とは、南西太平洋のソロモン諸島を中心とした島嶼国である。日本語表記では諸島とあるため誤解されやすいが、れっきとした国家である。政体は立憲君主制。国土面積は2万9000平方キロ(日本の九州の約8割)。人口は2011年の時点で57万2000人。人口密度は19.8人/㎢。首都はホニアラ。国名の由来は1568年に来航したスペイン人探検家のアルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラが南米のペルーに帰国後、古代イスラエルの黄金伝説で有名なソロモン王の地を発見したと触れ回ったこととされている。ソロモンとはヘブライ語で「平安に満ちた」を意味する。
概要[編集]
歴史[編集]
1568年にスペイン人の探検家であるアルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラが来航し、彼により島の名が付けられたことで知られている。1893年、諸島南部がイギリスの保護領となった。1900年には諸島北部に進出して、こちらも保護領に加えている。
1941年から太平洋戦争が始まると、この島は旧日本軍によって占領された。現在の首都・ホニアラがあるガダルカナル島は、1942年8月から1943年2月まで日本軍とアメリカ軍の激戦の舞台となる(ガダルカナル島の戦い)。太平洋戦争は当初こそ日本軍が優勢であったが、圧倒的な物量と兵力を誇るアメリカ軍は次第に反撃に転じて、このガダルカナル島の戦いでは特にその差が明らかになった。日本軍はアメリカ軍の前に敗北し、上陸した総兵力およそ3万1400人のうち、2万1000人が戦死、あるいは戦病死を遂げたという。実際の戦闘で戦死したのはおよそ5000人から6000人と見られており、残りの1万5000人から1万6000人は病気かあるいは餓死が死因だったと見られている。これは圧倒的な海軍力を誇るアメリカ軍の前に、日本軍は何とか物資と兵力をガダルカナル島に届けようとするネズミ輸送しかできずに追い詰められた結果で、この島は餓死者が相次いだことから日本軍から「餓島」と呼ばれたとまで言われている。ちなみに日本軍はガダルカナル島の戦いを敗戦と認めず、目的を達したので他の地域に「転進」すると称したとまで言われている。この戦いで日本軍の劣勢は明らかとなり、2年後の敗戦を迎えることになった。
1978年7月7日、英連邦の一員として独立を果たし、約2か月後の9月19日には国連に加盟した。
1998年末、ガダルカナル島民と隣のマライタ島民の土地所有をめぐる争いが、武装勢力の抗争にまで発展する。これによりソロモンの治安は悪化し、2000年には反政府組織・マライタ・イーグル軍によるクーデターまで発生する。その後、同年のうちに政府、反政府組織共に和平協定に調印はしたものの、その後も事態は改善されていない。2010年8月、国際選挙監視団の監視による総選挙が実施されて、ダニー・フィリップ政権が誕生した。
地理[編集]
南西太平洋に位置する島嶼国で、大小100余りの島が存在するが、これらはいずれも険しい火山島であり、最高峰はガダルカナル島マカラコムブル山の2447メートルである。高温多湿な熱帯海洋性気候であるが、南東貿易風が吹く4月から11月の間は比較的しのぎやすいものである。
首都・ホニアラの年平均気温は26.6度で、最高気温が1月の27度、最低気温は8月の25.9度であり、年間降水量は1923ミリである。
経済[編集]
コプラ、パーム油、木材などを基幹産業としているが、カツオ漁などの漁業も盛んであり、他にニッケル炭鉱などもある。ただしこれらはいずれも自然条件に左右されやすいので、国際価格の下落などでソロモン経済はそこまで豊かというわけではない。日本とは関係が深く、輸出の9割が木材である。また、1998年にはガダルカナル島ヘンダーソン国際空港(かつての日本旧軍がルンガ飛行場の名で建設した空港)に、無償援助(ODA)を行なったことにより新ターミナルビルが完成。さらに1973年から30年間は政府と大洋漁業(現在のマルハ)の合併によるソロモン大洋社のカツオ缶詰工場の操業も行なわれていた。
宗教[編集]
住民[編集]
- メラネシア系が95パーセント。
- ポリネシア系が3パーセント。
言語[編集]
通貨単位[編集]
国内総生産[編集]
- 1人当たり国内総生産は1340米ドル(2010年)
関連項目[編集]
- ソロモン諸島関係記事の一覧
- オントンジャワ海台
- ソロモン諸島の戦い
- 日本とソロモン諸島の関係
- 在ソロモン諸島日本国大使館(在ソロモン日本国大使館)
外部リンク[編集]
政府
日本政府
名誉領事館
観光
その他
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