三浦泰村
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三浦 泰村(みうら やすむら、? - 宝治元年6月6日(1247年7月9日))は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。父は三浦義村で次男。母は土肥遠平の娘。兄弟姉妹に朝村、長村、光村、重村、家村、資村、胤村、重時、良賢、矢部禅尼、女子(土岐光定室)、女子(毛利季光室)ら。正室は北条泰時の娘。子に景村、景泰、三浦駒孫丸ら。
生涯[編集]
通称は駿河次郎[1]。生年は不明であるが『承久記』の記録に従うなら承久の乱の時に18歳とあるため、逆算すると建仁3年(1203年)あたりの生まれと推測される。
承久の乱では父と共に鎌倉幕府軍の一員として参加し、北条泰時が率いる東海道軍に参陣して武功を立てた。掃部権助・式部少丞・若狭守と歴任し、幕府の評定衆に列した[1]上に泰時の娘を正室に迎えるなど重用される。
しかし泰時没後の寛元4年(1246年)の宮騒動において、弟の光村が北条光時と共謀して藤原頼経を奉じて反乱を起こそうとしたことから、北条時頼との間に疎隔を生じ始める[1]。もともと三浦氏の勢力は強大で北条氏に決して劣るものではなく、北条氏から見れば危惧する勢力であったこともあり、時頼は外戚である御家人・安達氏の提言もあって三浦氏の討伐を企図するようになる[1]。泰村は時頼との和平を望んでいたが、弟の光村が強硬で武力に訴え、遂に宝治元年(1245年)6月に三浦氏と北条氏は武力衝突に至る[1]。いわゆる宝治合戦であり、北条軍の攻撃を受けて館に火を放たれた泰村は一族郎党と共に源頼朝の墓所である法華堂に敗走し、ここで主だった一族276人と共に自殺して果てたという[1]。