最上義俊
最上 義俊(もがみ よしとし、慶長11年(1606年) - 寛永8年11月22日(1632年1月13日))とは、江戸時代前期の大名。出羽山形藩最上家の第3代藩主。後に近江大森藩主。
略歴[編集]
父は山形藩の第2代藩主・最上家親。母は不詳。戦国大名で有名な最上義光は祖父に当たる。通称は源五郎。正室は陸奥盛岡藩主・南部利直の娘。子に義智。
元和3年3月6日(1617年4月11日)に父の家親が急死したため、5月9日に家督を相続する。しかしわずか12歳の少年だったことから、藩政は家臣の後見により行なわれた。なお家督相続の際、征夷大将軍の徳川秀忠から老中の連署をもって特別の沙汰をもって許されていたことから、その謝礼として家親の遺品の長光の刀、唐肩衝の茶入れを献上している。
元和5年(1619年)6月、安芸広島藩主・福島正則が秀忠の勘気に触れて改易になった際、松平忠明や鳥居忠政らの指示で正則の屋敷を包囲し、改易の騒動に何事も無く終了することを得た。これにより恩賞として長光の御腰物を賜っている。
ところが元和8年(1622年)8月18日、秀忠の命令で義俊は山形藩の所領を没収されて事実上改易。山形藩の所領を没収された理由は義俊が若年で藩政がうまく機能しておらず、義俊自身が酒色に溺れて家臣の諫言を聞かないというのが理由とされたという。
最上氏ではそもそも義光の晩年に伯父の義康が廃嫡されたことに端を発する最上騒動が義俊の時代になっても根強く残されており、家親の急死にしてもそもそも毒殺の疑いが持たれていた。また、家親急死以降も若年の義俊でなく、叔父の山野辺義忠の後継を求める一派との争いや一族の松根光広らが主導権をめぐって争うなど、山形藩は内訌で乱れに乱れており、秀忠も遂に見過ごせずに改易に踏み切ったのだと言われる。
なお、秀忠は義俊の祖父・義光の忠勤を考慮して最初は6万石を新たに与えようとしていたが、最上一族がそれで納得せずにさらに騒動を起こしたことから態度を硬化させて藩をうまく統治できるかどうか疑問であるとして、1万石に減封して近江に移したのだという。
こうして義俊は失意のうちに、近江国蒲生郡・愛知郡・甲賀郡及び三河において合わせて1万石の所領を新たに与えられ、近江大森藩主となった。近江に移ってから8年後、わずか26歳の若さで死去している。
法名は華岳英心月照院。墓所は東京都台東区西浅草の万隆寺である。
義俊は父や祖父と共に暗君扱いされがちだが、後年の創作の可能性もある[注釈 1]。
義俊死後[編集]
家督は子の義智が継承したが、幼年で半知削減され、以後の最上本家は大身旗本(交代寄合)となって大名ではなくなった。また、一時、主君候補に祭り上げられた父・家親の次弟の山野部義忠は水戸藩に仕え、水戸家家老として知られている[注釈 2]。
脚注[編集]
- 注釈