北条氏勝
北条 氏勝(ほうじょう うじかつ、永禄2年(1559年) - 慶長16年3月24日(1611年5月6日))は、後北条氏の一族。安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。下総岩富藩の初代藩主。父は北条氏繁で次男。母は北条氏康の娘・七曲殿。祖父は北条綱成。外祖父は北条氏康。兄は氏舜。弟や姉妹に直重、千葉直胤、繁広、女(上杉氏憲室)。子に氏明。養子に繁広(実弟)、氏重(保科正直の4男)。官位は従五位下左衛門大夫[1]。
生涯[編集]
最初は父と共に北条氏政に仕える。関東軍の先鋒として軍功を挙げた。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐では、松田康長を助けて伊豆山中城に籠もって守るが、3月29日に豊臣秀次率いる5万の攻撃を受けて落城し、氏勝は落城寸前に山中城から逃れて自らの居城である相模玉縄城に戻り、この際に自らの力不足を恥じて剃髪したという。氏政から北条家の本拠である小田原城に来るように勧める使者が来ると、氏勝はこれを拒否してあくまで玉縄城を死守する覚悟を伝えたが、これが逆に氏政から疑われる原因になったという。そのため豊臣秀吉が黒田孝高を、徳川家康が本多忠勝・榊原康政・井伊直政らを使者として再三にわたって帰順を勧めると、遂に忠勝を介して帰順することを決め、家康の傘下に入った。以後、本多忠勝・浅野長政らの徳川・豊臣連合軍の道案内役を務めて、北条家の関東における諸城攻略に一役買った[1]。
小田原征伐後、徳川家康が関東に入国すると氏勝には下総岩富に1万石を与えられて譜代の地位に列せられる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属して三河岡崎城や尾張犬山城の守備を務め、戦後には丹波亀山城の在番を務めた[1]。
慶長16年(1611年)3月24日に死去。享年53。死後、家督は家康の命令で保科正直の4男が北条氏重として養嗣子となり、跡を継いだ[1]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『三百藩藩主人名事典2』藩主人名事典編纂委員会 編、1986年。新人物往来社