北条氏秀

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北条 氏秀(ほうじょう うじひで、? - 天正11年6月2日1583年7月10日))は、戦国時代武将後北条氏の一族。父は北条綱成。兄に北条氏繁。姉妹に浄光院殿高源院殿。子に乙松丸

以前は北条氏康の6男で、上杉謙信養子となり、謙信没後の御館の乱上杉景勝と争った上杉景虎が、養子になる前に名乗っていた前名と見られていたが、これを採用しているのは江戸時代中期の『関八州古戦録』であり、江戸時代前期の『北条五代記』『北条記』などには記録されておらず、また現在の研究などから景虎と氏秀は全くの別人であることが明らかにされている。

略歴[編集]

仮名孫次郎(まごじろう)[1]。諱は康元(やすもと)[1]。なお、仮名の孫次郎は叔父の北条綱房と同じであるため、氏秀はその家系を継承した可能性がある[1]。康元の「康」は北条氏康からの偏諱と見られている[1]

永禄2年(1559年)8月から記録に見られるが、姓名は沼田 孫次郎(ぬまた まごじろう)と称し、上野国沼田城に在城していたことから、上野国衆である沼田氏の名跡を継承していたと見られている[1]。沼田氏はこの頃、当主の沼田弥七郎が内乱で死去していたため、康元がその家督を継承していたと見られている[1]

永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦い今川義元織田信長に敗れて死去し、その混乱を見た越後国の長尾景虎(上杉謙信)が9月に関東管領上杉憲政を擁して関東に侵攻してくると、その大軍から康元は沼田城を失って逃走し、上野高山城に逃れたが、ここも12月に追われて逃走した[1][2]。敗戦しているが、後北条氏の一族ゆえにか罪には問われてない模様である。

永禄7年(1564年)1月に江戸城に在城しており、元亀元年(1570年)12月に兄の氏繁と共に足柄城に在城している[2]。天正2年(1574年)2月に氏秀の名乗りで記録が見え、この頃には江戸城一帯で支配の権限を与えられていたようである[2]。同年の7月の記録では治部少輔の官途を称している[2]。なお、氏秀の名乗りは後北条氏の本来の通字である「氏」を用いたものであり、このことから氏秀は後北条氏の一族の中でもその家格が上昇して重用されていたことがわかる[2]

以後、江戸方面の郡代支配権を管轄し、江戸城代を務めたようであるが、この江戸城代就任の時期は元亀2年(1571年)8月以降と見られている[2]。また、兄の氏繁が出陣中である天正2年(1574年)8月には、その代理として武蔵国岩槻城に在城して留守を守っている。天正10年(1582年)3月から7月にかけては下総国関宿城に在城して留守を守っている[3]。このことから、氏秀は父の綱成や兄の氏繁とは異なり、行政手腕で後北条氏の後方の守備などを担当していたものと見られている[3]

しかし天正10年(1582年)7月から病気に倒れて居城の江戸城に帰城して療養するが、回復せずに天正11年(1583年)6月2日に死去した[3]。家督は嫡子の乙松丸が継承したが、幼少のために北条氏政が後見している[3]。後に乙松丸は早世して氏秀の家系は断絶した[3]

法名は玉岩寺新養道雲大禅定門[3]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P167
  2. a b c d e f 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P168
  3. a b c d e f 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P169

参考文献[編集]