深沢城
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深沢城(ふかさわじょう)とは、現在の静岡県御殿場市深沢に存在した日本の城である。後北条氏の「地黄八幡」で知られる勇将・北条綱成の「深沢矢文」で有名な城である。
概要[編集]
御殿場市の北東、宮沢川と抜川の合流点の断崖上に築かれていた平城である。足柄街道に面する交通の要衝であったため、戦国時代にこの城をめぐり甲斐武田氏、後北条氏、徳川氏との間で攻防戦が行なわれている。
永禄12年(1569年)11月、武田信玄が軍勢を率いてこの城を攻撃するが、守るは北条家で地黄八幡の名将として名高い北条綱成の善戦に遭い、信玄と言えども容易には落とせなかった。永禄13年(1570年)1月3日、武田信玄は深沢城を厳重に包囲した上で綱成に対して投降を呼びかける矢文を深沢城内に射ち込んだ。これが有名な深沢矢文であり、綱成は武田の大軍の前にいつまでも抗戦は無理と悟り、信玄の勧告に応じて無血開城して出家した。
以後、武田氏の属城となり、信玄は家臣の駒井昌直を城主に任命した。しかし天正10年(1582年)の織田信長・徳川家康による武田征伐の際、駒井は深沢城を焼き払って逃走する。このため、徳川氏の属城となり、家康は家臣の三宅康貞を城主に任命する。天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が滅亡し、家康が関東に移されると三宅もそれに従い、それに伴って深沢城は廃城とされた。
城跡は東西320メートル、南北300メートル、平坦地に土橋で連結した3の丸、2の丸、本丸の3つの曲輪を配し、「深沢城址」の石碑が建つ大手口に武田流の築城法の典型を示す三日月堀が残っている。遺構は土塁、空堀、虎口など保存状態は良く、静岡県の史跡に認定されている。
アクセス[編集]
- 御殿場駅からバスで15分。