大友義統

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大友 義統(おおとも よしむね、永禄元年(1558年) - 慶長15年7月19日1610年9月2日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名江戸時代前期の武将大友家の第22代当主。幼名は長寿丸[1]。別名は吉統・宗巖・中庵[1]。官途は左兵衛督[1]。父は大友宗麟で嫡子。母は奈多鑑基の娘[1]奈多夫人。同母弟に親家親盛。子に義乗

生涯[編集]

天正4年(1576年)に父の宗麟から家督を譲られて当主となる[1]。しかし義統が府内で、宗麟が臼杵でそれぞれ国政をとった二頭政治は父子や家臣の対立が絡んで大友家衰退の一因となった[1]。天正6年(1578年)の耳川の戦い島津義久に大敗すると、それに付け込んだ島津義久の肥後北上と肥前龍造寺隆信による筑前豊前への侵攻に加え、大友領内では国人領主の反乱も相次いだ[1]。天正7年(1579年)の田原親貫の乱、翌年の田北紹鉄の乱など大野郡直入郡など南郡衆の国人などが義統から離反してゆく[1]。このため沖田畷の戦いで勝利した島津軍の侵攻の前に義統は太刀打ちできず、時の天下人である豊臣秀吉の支援を要請する。天正7年(1579年)11月27日、織田信長の推挙により従五位下左兵衛督に叙せられた。

しかし秀吉の援軍が到着する前の天正14年(1586年)には島津義久による大規模な豊後攻めが開始される(豊薩合戦)。志賀親次佐伯惟教ら奮戦する家臣の抵抗もあったが、肝心の義統は戸次川の戦いで大敗。豊後から逃走して豊前の竜王城に撤退する醜態を晒した。天正15年(1587年)、秀吉の九州征伐により島津軍が秀吉に降伏すると、義統は秀吉より豊後一国を安堵されて豊臣政権下の大名となる[1]。天正16年(1588年)2月に秀吉に謁見したとき、従四位下、侍従に叙された。

文禄2年(1593年)、秀吉による朝鮮出兵に参加した際、義統ら大友軍は平壌軍の攻撃を前にして敵前逃亡したとして秀吉の逆鱗に触れて改易され[1]、ここに大名としての大友家は滅亡した。その後、義統は周防山口常陸水戸などを転々とした[1]

秀吉没後の関ヶ原の戦いでは毛利輝元の支援を得て西軍として旧領の豊後に上陸する。しかし旧臣の吉弘統幸らは義統らに東軍への加担を勧めており[1]、これは義統の独断だったという。結局、石垣原の戦いで東軍の黒田如水の前に大敗して降伏[1]。大名としての復帰はならず、常陸宍戸で関ヶ原から10年後に53歳で死去した。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l m 『戦国人名事典コンパクト版』 1990年、P187

参考文献[編集]

  • 『戦国人名事典コンパクト版』 阿部猛、西村圭子、新人物往来社、1990年9月 ISBN 4-404-01752-9