太田一吉
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太田 一吉(おおた かずよし)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。丹羽氏、次いで豊臣氏の家臣で豊後臼杵城主として6万5000石を領した[1]。
略歴[編集]
一吉は当初は信長の重臣・丹羽長秀に仕え、天正13年(1585年)の長秀没後に豊臣秀吉に仕えて、美濃国内で1万石の大名に取り立てられる。文禄2年(1593年)に大友吉統が改易された後、豊後臼杵城主として6万5000石に加増移封された。慶長2年(1597年)からの慶長の役では小早川秀秋の軍目付となり、秀吉と秀秋の連絡役を担う[1]。『島津家文書』では、慶長の役に参加して渡海していた島津義弘とも連絡を取り合っている。このような経緯から、石田三成と懇意にあり、豊後国の諸大名の中で大封を得ているのも三成の引き立てがあったとする説がある。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属した。ただ、一吉自身は合戦に参加せずに病気を理由に在国しており、その対応も曖昧だった。甥の政成を東軍の黒田如水に預けて従軍させた。それでいながら息子の一成に軍を預けて西軍に参加させている。関ヶ原本戦終了後に豊後竹田城主の中川秀成が東軍に属して一吉の臼杵城を攻撃する。これに対し、主力を一成に預けて留守部隊しか残っていなかった一吉は、中川軍と佐賀関で戦って奮戦した(佐賀関の戦い)。さらに島津義弘と連絡を取り合って臼杵を守り抜こうとしたが、秀成の攻撃を受けて籠城。そして、秀成に降ることを恥辱として、甥を預けていた黒田如水に対して開城することを通告し、降伏した[1][2]。
戦後、一吉は所領を没収されて改易され、剃髪して京都に隠棲した。以後は老齢もあってか一線から退いており、元和3年(1617年)に死去している[2]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]