加治田城
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加治田城(かじたじょう)とは、現在の岐阜県美濃国中濃加治田の加治田山山頂にあった城である。別名・却敵城、加治田山城。山全体を古城山・梨割山・白華山(清水寺)と言う。美濃佐藤氏が築城し、二代目からは美濃斎藤氏の居城となる。通常名は現代では加治田城であるが、当時では却敵城である。
概要[編集]
創始(初代)[編集]
美濃有力国人衆佐藤氏の佐藤忠能・佐藤忠康の親子が築城したとされる。
改築(二代目・三代目)[編集]
織田信長の命により中濃攻略戦より、佐藤忠能の養子となった二代目・斎藤道三末子であり信長義弟の斎藤利治が正式に二代目加治田城主となる。斎藤利治は兄である斎藤利堯を留守居として呼び寄せ、任ずる事となる。斎藤利堯は後に三代目加治田城主となった。
その後(廃城後)[編集]
本能寺の変にて斎藤利治は織田信忠と共に忠死し、後継の斎藤利堯が加治田城主となり、森長可の野心・野望の争いによる加治田・兼山合戦を加治田城攻城戦にて勝利する。だが、その後斎藤利堯は親族の稲葉一鉄の勧めもあり、加治田城を退去し、隠棲。城は森氏の支配下となるが、森長可は城が多くなり管理・維持と謀反の疑心暗鬼になり、美濃国要所の難攻不落の城である却敵城を石垣から櫓・建築物全てを破却した。その資材は加治田城下町に使われ、昭和初期まで城下町・宿場町として大いに栄え、文化を成した。
•東海環状自動車道・富加関ICから20分