菅屋長頼
菅屋 長頼(すがや ながより、? - 天正10年6月2日(1582年6月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の一族で家臣。織田信長の側近を務めた。
生涯[編集]
幼名は御長。通称は九右衛門尉。初名は長行といい[1]、長は信長からの偏諱と考えられる。父は織田造酒丞で織田一族だが、信長から菅屋の姓を与えられて改姓したという[2]。
永禄11年(1568年)の信長の足利義昭を奉じた上洛に従い、以後は信長の側近として奏者、京都の奉行職などを務めた。元亀元年(1570年)10月、志賀の陣で朝倉義景・浅井長政連合軍と対峙した信長は、佐々成政と長頼を朝倉の陣に送って決戦を申し入れるが、拒否された。また、信長が杉谷善住坊に狙撃されて暗殺されかけた際には、その成敗を担当する奉行となり、また安土宗論における奉行など、様々な奉行職を信長から任されており、かなりの信任の厚さがうかがえる[2]。
天正9年(1581年)3月、柴田勝家らによる能登国平定が成し遂げられると、長頼は信長の命令で能登に赴いて七尾城の城代に任命され、同国の城割、知行調整など奉行としての役割を務めている。また、長続連や上杉氏を裏切って信長に降伏した遊佐続光・盛光父子を信長の命令で成敗している。能登は10月に信長により前田利家に与えられたが、その際にそれまで利家の所領であった越前国の所領は長頼の管轄下に置かれている[2]。
天正10年(1582年)の武田征伐後、安土城で徳川家康を接待する責任者に任命されている[2]。
同年の6月2日、本能寺の変が起きた際、子の角蔵は信長と本能寺で死去し、自らともう1人の息子の勝次郎は信長の嫡子・織田信忠とともに二条御所で討死した。法名は高巌幻順[2]。
長頼の姉妹は同じく信長の側近だった矢部家定に嫁いでいる。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 岡田正人 『織田信長総合事典』 雄山閣出版、1999年。 。