甫庵信長記

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちが甫庵信長記の項目をおカタく解説しています。

甫庵信長記』(ほあんしんちょうき/ほあんのぶながき)とは、江戸時代前期に儒学者医師小瀬甫庵が書いた軍記物語(仮名草子)である。全15巻。本題は『信長記』なのだが、ほぼ同時代に太田牛一が書いた信長の軍記物語も『信長記』であるため、混同を避けるために甫庵の信長記は『甫庵信長記』、牛一の信長記は『信長公記』と呼ぶのが一般的である。

概要[編集]

著者・成立年代[編集]

著者は小瀬甫庵。元々の題は『信長記』であるが、太田牛一の『信長公記』(こちらも元々の題名が『信長記』)と区別するため、『甫庵信長記』と言われる。別称は『甫庵本信長記』(ほあんぼんのぶながき)。

成立については、甫庵が書いているものではなく、林羅山が『信長記序』で「慶長辛亥冬十二月」とあることから、慶長16年(1611年)12月ということになる。これは太田牛一が死去する前後であり、藤本正行はこれを偶然とは見ておらず、太田が死去するのを待ってから刊行したのではないかと推定している。また桑田忠親によると「甫庵が当時仕えていた出雲国松江藩主の堀尾可晴が死去したのが同年6月であり、恐らく可晴が死去して堀尾氏を辞去し、上洛して同年末に刊行した」と推定している。

甫庵は自著の「起」において、太田の『公記』を参考にしたことを認めている。ただ、甫庵は自分が天正年間から書き始めたと述べており、天正年間に『公記』があったとは思い難いので、何を参考にしたのか不明である。また、太田の死を待つかのように刊行したのは、太田に自著を見られた際に批判されることを恐れてのことではないかと推定される。

ただ、この甫庵という人物は後に『太閤記』も著しているが、それも創作や誤伝の部分が色濃く、この『甫庵信長記』にしても信頼性は非常に乏しいと言わざるを得ない。事実、甫庵は太田の死後に世に出したので太田から批判されることは無かったが、大久保忠教が存命だったことまではさすがに気を回していなかったようで、大久保は自著の『三河物語』中巻において「甫庵信長記を見るに、偽多し、3分の1は事実であるが、3分の1は似たようなことが書いてあり、残りの3分の1は全くのでたらめである」と酷評している。しかも大久保は「甫庵信長記は合戦でそこまで大したことのなかった若者を昔語りを聞いただけで比類無き高名の者と思い込んで書いたり、何度も戦いで引けを取り人から後ろ指を指された者を鬼神のように書いている。なのに実際にたびたび高名を立てた剛勇の者を書いていない」と激しく批判まで加えている。大久保は信長の同盟者であった徳川家康の家臣で、恐らく信長とも対面したことがあったと考えられるだけに、この批判は事実と推定される[注 1]

また、江戸幕府成立後にできた作品のためか、儒教的歴史観によってかなり脚色、恣意的な増補潤色が見られる。ただ、この甫庵信長記はたびたび刊行され、非常に受けが良かったためか、多くの人々に流布したと言われている。

江戸時代中期に成立した『常山紀談』巻7にも『甫庵信長記』についての記述があるが、これですら「(加賀藩前田氏の家臣の)横山長知から甫庵が取材をして、この著書を出した。しかし長知は甫庵が著書を世に出すことまで聞いておらず、それを教えてくれていたらもっと詳しく教えたのに」と残念がり、実際に見た著書を見て「遺漏が多すぎる」と語ったという[注 2]

以上から、『甫庵信長記』は『公記』と比較すると非常に信頼性が乏しい史料と言わざるを得ない。

内容[編集]

戦国時代英雄覇王である織田信長の1代伝記、軍記物語である。全15巻。なお、1巻と15巻のみ、上下に分かれている。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. そもそも甫庵は信長が死んだ時点で数え19歳。信長の乳兄弟だった池田恒興に仕えていた時期もあったとされているが、信長と対面したことがあったとは思いにくい。
  2. 甫庵が前田家に仕えたのは寛永元年(1624年)であり、慶長16年(1611年)に出た著書と時期が合わない。さらに言うと横山は永禄11年(1568年)の生まれで甫庵より年下であり、信長と面識があったとは思えない。
  3. 森部や軽海は斎藤龍興との戦いだが、甫庵では斎藤義龍との戦いになっており、しかも信長が勝利したことになっている。
  4. 正しくは永禄10年(1567年)。
  5. 現在、盃にしたというのは否定されている。
  6. 現在、三段撃ちは否定されている。

出典[編集]

参考文献[編集]

古活字版[編集]