甫庵信長記
『甫庵信長記』(ほあんしんちょうき/ほあんのぶながき)とは、江戸時代前期に儒学者・医師の小瀬甫庵が書いた軍記物語(仮名草子)である。全15巻。本題は『信長記』なのだが、ほぼ同時代に太田牛一が書いた信長の軍記物語も『信長記』であるため、混同を避けるために甫庵の信長記は『甫庵信長記』、牛一の信長記は『信長公記』と呼ぶのが一般的である。
概要[編集]
著者・成立年代[編集]
著者は小瀬甫庵。元々の題は『信長記』であるが、太田牛一の『信長公記』(こちらも元々の題名が『信長記』)と区別するため、『甫庵信長記』と言われる。別称は『甫庵本信長記』(ほあんぼんのぶながき)。
成立については、甫庵が書いているものではなく、林羅山が『信長記序』で「慶長辛亥冬十二月」とあることから、慶長16年(1611年)12月ということになる。これは太田牛一が死去する前後であり、藤本正行はこれを偶然とは見ておらず、太田が死去するのを待ってから刊行したのではないかと推定している。また桑田忠親によると「甫庵が当時仕えていた出雲国松江藩主の堀尾可晴が死去したのが同年6月であり、恐らく可晴が死去して堀尾氏を辞去し、上洛して同年末に刊行した」と推定している。
甫庵は自著の「起」において、太田の『公記』を参考にしたことを認めている。ただ、甫庵は自分が天正年間から書き始めたと述べており、天正年間に『公記』があったとは思い難いので、何を参考にしたのか不明である。また、太田の死を待つかのように刊行したのは、太田に自著を見られた際に批判されることを恐れてのことではないかと推定される。
ただ、この甫庵という人物は後に『太閤記』も著しているが、それも創作や誤伝の部分が色濃く、この『甫庵信長記』にしても信頼性は非常に乏しいと言わざるを得ない。事実、甫庵は太田の死後に世に出したので太田から批判されることは無かったが、大久保忠教が存命だったことまではさすがに気を回していなかったようで、大久保は自著の『三河物語』中巻において「甫庵信長記を見るに、偽多し、3分の1は事実であるが、3分の1は似たようなことが書いてあり、残りの3分の1は全くのでたらめである」と酷評している。しかも大久保は「甫庵信長記は合戦でそこまで大したことのなかった若者を昔語りを聞いただけで比類無き高名の者と思い込んで書いたり、何度も戦いで引けを取り人から後ろ指を指された者を鬼神のように書いている。なのに実際にたびたび高名を立てた剛勇の者を書いていない」と激しく批判まで加えている。大久保は信長の同盟者であった徳川家康の家臣で、恐らく信長とも対面したことがあったと考えられるだけに、この批判は事実と推定される[注 1]。
また、江戸幕府成立後にできた作品のためか、儒教的歴史観によってかなり脚色、恣意的な増補潤色が見られる。ただ、この甫庵信長記はたびたび刊行され、非常に受けが良かったためか、多くの人々に流布したと言われている。
江戸時代中期に成立した『常山紀談』巻7にも『甫庵信長記』についての記述があるが、これですら「(加賀藩の前田氏の家臣の)横山長知から甫庵が取材をして、この著書を出した。しかし長知は甫庵が著書を世に出すことまで聞いておらず、それを教えてくれていたらもっと詳しく教えたのに」と残念がり、実際に見た著書を見て「遺漏が多すぎる」と語ったという[注 2]。
以上から、『甫庵信長記』は『公記』と比較すると非常に信頼性が乏しい史料と言わざるを得ない。
内容[編集]
戦国時代の英雄・覇王である織田信長の1代伝記、軍記物語である。全15巻。なお、1巻と15巻のみ、上下に分かれている。
- 第1巻・上 - 「興亡」と題する序章で、天下を治める道を儒教的立場から説き、応仁の乱以降の日本における戦乱について語る。また、永禄8年(1565年)5月の永禄の変と、足利義昭が奈良から近江国に落ちた室町幕府の命運。さらに織田氏の先祖について、信長の兄弟との確執、信長の元服、信長の婚姻、父・織田信秀の死去(天分18年(1549年))、平手政秀の諫死、織田信行の殺害、岩倉城の戦い、桶狭間の戦い、斎藤氏との森部の戦い、軽海の戦いまで[注 3]。
- 第1巻・下 - 永禄7年(1564年)8月に信長が稲葉山城を落とす[注 4]。足利義昭を奉じて上洛。さらに信長は柴田勝家に命じて三好三人衆ら畿内の諸勢力を討つ。
- 第2巻 - 本圀寺の変が3分の2も占めている。信長の上洛と伊勢国大河内城攻めと伊勢国平定。
- 第3巻 - 姉川の戦い、信長包囲網、志賀の陣と信長と朝倉義景・浅井長政との和睦。なお、和睦は朝倉・浅井側から求めたものとなっている。
- 第4巻 - 伊勢長島一向一揆攻め、佐和山城の磯野員昌降伏、比叡山延暦寺焼き討ち。なお、甫庵は「山門を亡ぼす者は山門なり。信長には非ざるべし」と評している。
- 第5巻 - 元亀3年(1572年)の信長による小谷城攻め。この巻は記事が少なく、信長の2つの武士らしいものと、心暖かく領民想いなエピソードを載せている。
- 第6巻 - 信長と義昭の対立。ただ、元亀4年(1573年)1月に松永久秀が信長に帰属することを望むなど、時系列がおかしい点が多い。室町幕府滅亡、朝倉氏と浅井氏の滅亡、伊勢長島一向一揆攻め。
- 第7巻 - 天正2年(1574年)1月に朝倉義景、浅井長政らの頭蓋骨に金箔を施し、それを盃に酒宴をしたとしている[注 5]。信長の蘭奢待切り取り、武田勝頼の侵攻、長島一向一揆の虐殺まで。
- 第8巻 - 長篠の戦いが主な内容。甫庵は自著で信長がこの戦いで三段撃ちを行なったように書いている[注 6]。越前一向一揆の掃討まで。
- 第9巻 - 安土城築城、石山本願寺攻撃まで。
- 第10巻 - 天正5年(1577年)2月の紀伊国雑賀党攻め、松永久秀の離反と追討。羽柴秀吉の中国地方進出開始まで。
- 第11巻 - 秀吉の播磨国の諸城攻略、荒木村重の謀反と信長の追討まで。
- 第12巻 - 安土宗論、明智光秀の丹波国八上城攻略、荒木村重の逃亡と妻子一族の処刑まで。なお、荒木一族の反逆と処刑について甫庵は簡略に書いている。
- 第13巻 - 播磨三木城攻略、石山本願寺と信長の勅命講和、佐久間信盛の追放まで。
- 第14巻 - 京都御馬揃え、徳川家康による高天神城攻略、羽柴秀吉の鳥取城攻略。ただ、この巻は他巻と比較して雑な書き方で、時系列もおかしなところが多い。それと、最後に「作物記の事」(茶道具などの重宝について)、「夜話の事」(京都や堺の町人などの夜話に関する逸話)が載せられている。
- 第15巻・上 - 武田征伐、本能寺の変、神君伊賀越えなど。信長の死が中心。佐久間信盛が死去し、その子の佐久間信栄(本著では定永となっている)を許して帰参させたこと、信長が「東国法度」15条を発布したこと、信長が武田征伐に7万を動員したことなどが書かれている。
- 第15巻・下 - 巻頭に「信長公早世の評」と題して載せている。甫庵は信長が早世した理由として「孝行の道に厚くなかったから」「神仏を敬わなかったので加護がなかったから」「人の非を決して許さず厳しく咎めたから」とかなど、7か条を載せている。なお、神流川の戦い、信長やその家臣の旗印に関してなども載せている。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ↑ そもそも甫庵は信長が死んだ時点で数え19歳。信長の乳兄弟だった池田恒興に仕えていた時期もあったとされているが、信長と対面したことがあったとは思いにくい。
- ↑ 甫庵が前田家に仕えたのは寛永元年(1624年)であり、慶長16年(1611年)に出た著書と時期が合わない。さらに言うと横山は永禄11年(1568年)の生まれで甫庵より年下であり、信長と面識があったとは思えない。
- ↑ 森部や軽海は斎藤龍興との戦いだが、甫庵では斎藤義龍との戦いになっており、しかも信長が勝利したことになっている。
- ↑ 正しくは永禄10年(1567年)。
- ↑ 現在、盃にしたというのは否定されている。
- ↑ 現在、三段撃ちは否定されている。
出典[編集]
参考文献[編集]
古活字版[編集]
- 小瀬甫庵 (漢文) 国立国会図書館デジタルコレクション 『信長記』 全15巻、1622年 。