織田信興
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織田 信興/信与 おだ のぶおき/のぶとも | |||||||||||||||||||||||||||||
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織田 信興(おだ のぶおき)は、戦国時代の武将。織田氏の一族で家臣。織田信長の弟。尾張小木江城主[1]。
生涯[編集]
『信長公記』巻3において小木江城主であり、彦七として記録されている。ただ、官途や受領名が記録されていないため、信長の弟の中でもかなり若かったのではないかと推定される[1]。
元亀元年(1570年)に浅井長政や朝倉義景、顕如らによって信長包囲網が形成され、信長は志賀の陣において浅井・朝倉連合軍と対峙していた。その留守の隙を突かれて信興が守る小木江城が伊勢長島一向一揆によって攻められることになり、小木江城は一向一揆の大軍に包囲された[1]。
この時のことを『信長公記』は詳しく記録している。
「長島より一揆蜂起せしめ、取りかかり、日を追って攻め申し候。既に城内に攻め込みしなり。一揆の手にかかりて候ては御無念とおぼしめし、御天主に上がり候て、霜月21日、織田彦七御腹めされ、是非なき題目なり」
以上のように、一揆の大軍に包囲された信興は抵抗したものの、衆寡敵せず、敵の手にかかるよりはと天主閣に上って自害したのだという。享年は不明だが、恐らく20歳代だったと推定される[1]。
弟を殺された信長の一揆に対する憎悪が燃え上がり、これが4年後の長島大虐殺の遠因となった。
脚注[編集]
参考文献[編集]