土田御前

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土田御前(どたごぜん/つちだごぜん、? - 文禄3年1月7日1594年2月26日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性で、織田信秀継室。実名は不詳で土田は姓を御前に付け足して名前にしたものである。織田信長の生母[1]

経歴[編集]

父は土田下総守政久。母は不詳。土田氏については、美濃国可児郡土田とも、あるいは尾張国清州の土田ともいわれており、定かではない[1]。ちなみに、美濃の場合は「どた」、尾張の場合は「つちだ」と呼ぶことになる。

信秀との婚姻がいつかは不詳だが、信長が天文3年(1534年)生まれのため、少なくともそれ以前であるのは確かである。土田御前所生の子供として信長と信行は明確であるが、それ以外の子供については不詳である[1]

信長を産んだものの、土田御前は信長を余り可愛がろうとせず、むしろ信行のほうを可愛がったといわれる。そのため、信秀が死去すると信行のいる末森城に移り住んでいる。弘治2年(1556年)8月に信長と信行が家督争いを起こして、稲生の戦いで信行が敗れると、土田御前は自ら信長の居城である清州城に出向いて信行の助命、赦免を願い出て信長は信行を許している。しかし再度、信行が信長に対して反乱を起こそうとしたため、遂に信長は信行を謀殺している。以後、土田御前は信長の庇護を受けるようになった[1]

信長公記』によると、天正6年(1578年)10月、摂津国有岡城主の荒木村重が信長に対して謀反を起こすと(有岡城の戦い)、信長は当初、村重に翻意を促すために自らの「御袋様」つまり土田御前を人質に差し出そうとしたという。しかし、これは実現しなかった。また、『安土日記』によると、天正7年(1579年)2月27日に荒木村重の離反の際に村重に同調せずに信長に従った中川清秀に対し、土田御前がを褒賞として与えたとある。

天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長が死去すると、安土城留守居を務めていた織田家の家臣・蒲生賢秀に庇護されて日野城に逃れた。そして、清州会議を経て尾張を支配することになった信長の次男、つまり土田御前の孫に当たる織田信雄の庇護下に置かれ、「大方殿様」と尊称されるようになった[1]。『織田信雄分限帳』によると、信雄から化粧料として640貫文を如意郷に与えられていたという。

しかし天正18年(1590年)の小田原征伐後、信雄は豊臣秀吉東海地方への移封命令を拒否したことから、秀吉の怒りに触れて改易されてしまい、土田御前は伊勢安濃津城主の織田信包(信長の弟)の庇護下に置かれた[1]。このことから、信包も土田御前の所生だった可能性が極めて高い。

文禄3年(1594年)1月7日に安濃津で死去した[1]享年は不詳だが、恐らく80歳に近かったと推定される。

法名は報春院花屋寿永大禅定尼。墓所は三重県津市四天王寺[1]

土田御前が登場する作品 [編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b c d e f g h 岡田 1999, p. 144

参考文献[編集]

外部リンク[編集]