浅井氏
浅井氏(あざいし)は、近江国北部(現在の滋賀県北部)を支配した戦国大名である。戦国大名としては浅井亮政・浅井久政・浅井長政の3代にわたって50年の間、近江北部を支配した。居城は小谷城。
概要[編集]
浅井家の先祖は聖徳太子時代に蘇我馬子と争った物部守屋、あるいは正親町三条実雅と言われるが確証は無い。
歴史上で明らかなのは元々、北近江の守護大名である京極氏の家臣であった。しかし、京極氏のお家騒動に乗じて頭角を現したのが亮政であり、亮政は越前国の朝倉宗滴の支援を得て北近江に一定の領地と勢力を確保した。しかし亮政が死去すると、後継した嫡子の久政が若年で凡庸だったことから浅井家や北近江に動揺が起こり、混乱の中で浅井家は南近江を支配する六角定頼の介入を受け、その従属下に置かれてしまった。
このような立場に久政の嫡子である長政、その家臣団は我慢がならず、久政を強制的に隠居させられた。当主となった長政は、永禄3年(1560年)に野良田の戦いで定頼の跡を継いでいた六角義賢率いる六角軍を寡兵で撃破し、浅井家は六角家の従属下から脱した。
長政は越前国の朝倉義景、尾張国の織田信長と同盟を結びながら六角氏、美濃国の斎藤氏と戦い、特に織田信長とは信長の妹であるお市の方と婚姻して同盟関係を深め、北近江の支配を強化した。
しかし、元亀元年(1570年)に織田信長が朝倉義景討伐を名目にして越前国に侵攻すると、長政は隠居の父の久政や反織田の家臣団の勧めもあって越前侵攻していた織田信長の背後を襲い、浅井家と織田家は敵対関係になる。長政は信長と戦うも、姉川の戦いで惜敗し、次第に小谷城周辺のみに追い詰められてゆく。一時は志賀の陣や武田信玄の織田領侵攻で巻き返しを図りもしたが、信長の政略や信玄の死去などもあり挽回には至らず、天正元年(1573年)8月に朝倉義景が織田信長により越前国で滅ぼされると浅井家は孤立無援となり、小谷城を攻められて隠居の久政は自殺。長政も信長の降伏勧告を拒否して自殺し、戦国大名としての浅井家は滅亡した。この際、長政の嫡子である万福丸は信長により禍根を断つため殺害された。
豊臣政権以降[編集]
小谷城落城以降、信長の血縁者であるお市の方所生の女子は助命され、信長に保護された。長女は後の淀殿となり、次女は常高院として京極高次に嫁ぎ、三女は豊臣秀勝[注 1]の正室を経て、お江の方として徳川秀忠の御台所となり、浅井家の血統と織田家の血統はその後の日本の歴史に大きな影響を与えていくことになる[1]。
脚注[編集]
- 注
- 出典
- ↑ “浅井氏とはどんな戦国大名か”. 長浜市教育センター. 2016年5月27日確認。