真木和泉

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真木 和泉(まき いずみ、文化10年3月7日1813年4月7日) - 元治元年7月21日1864年8月22日))は、江戸時代後期の久留米水天宮祠官、久留米藩士、尊皇攘夷派の活動家。父は真木旋臣、母は中村柳子。神官として従五位下和泉守の官位を持ち、通称の真木 和泉守もしくは真木 和泉、真木 和泉守 保臣として名前は知られている。雅号は紫灘(したん)。贈正四位。諱は保臣(やすおみ)。

生涯[編集]

筑後久留米城下の瀬下町水天宮の第21代神職・真木旋臣の長男。父の旋臣は早くに没したので、11歳で神職を継承して国学宮崎信敦に、漢学宮原国綸に学んだ。かなり聡明で知られ、久留米藩の藩校明善堂孝課で「格別出精上達」と評価されている。だがこのため、思想は朝廷崇敬と水戸学を根底とした国典、漢籍に通じることになり、さらに楠木正成を崇敬して今楠公と呼ばれる楠公祭を毎年営むなど、急進的な尊皇派になってしまう。また、武芸や詩歌音楽にも長じていた。

尊皇派の影響を受けて江戸弘化元年(1844年)に出るが、ここで水戸藩会沢正志斎に師事を受けてさらに尊王攘夷に傾倒してしまい、結果的に天保学と称される学問まで創設。さらに故郷の久留米藩に対して藩政改革を建白するなどしたが、藩首脳はこれら一連の動きを危ぶんで和泉を建白した罪で弟のいる水田天満宮に蟄居させた。ところが弘化2年(1845年)に下級武士を動かして指導を開始し、蟄居すること6年の間に「大夢記」「義挙和文」などの著書を書いて尊王攘夷をさらに推進する動きを見せる。安政6年(1859年)に長州藩吉田松陰安政の大獄井伊直弼により処刑されると、その死後には事実上の尊王攘夷志士の旗頭的存在になり、日本全国における尊王攘夷および討幕運動に対する理論的指導者になった。

久留米藩からやがて脱藩し、薩摩藩大久保利通と結託して薩摩藩の事実上の指導者で国父の島津久光を擁立し、上洛計画を推進するが、文久2年(1862年)に京都で活動中に寺田屋事件に巻き込まれて幽閉される。このため長州藩に接近して久坂玄瑞と共に元治元年(1864年)に禁門の変を引き起こしたが、会津藩と薩摩藩などを主力とした幕府軍に敗れ、会津藩と新選組の追撃を受けて天王山において16名の同志と共に自殺した。51歳没。