本能寺
敵は本能寺にあり!
- 伝・明智光秀
本能寺(ほんのうじ)とは、京都府京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522に存在する寺院である。天正10年(1582年)に織田信長がこの寺に逗留していた際、家臣の明智光秀に本能寺の変を起こされたことで有名な寺院である。
概要[編集]
京都市役所と御池通を隔てた南側にある寺院である。法華宗本門流の大本山である。室町時代中期の応永22年(1415年)に門祖・日隆が五条坊門に創建し、最初は本応寺と呼ばれた。永享8年(1436年)に本能寺に改められた。ただし、寺のある土地はたびたび変えられており、天文14年(1545年)に四条西洞院に移った。
安土桃山時代に政権を掌握した織田信長は本能寺をよほど気に入ったのか、京都を訪れた際には本能寺に逗留することが多かった。当時の本能寺は現在の本能寺町、元本能寺町一帯を占める広大なものであり、子坊の数も30余りを数える広大なものであったという。天正10年(1582年)6月2日、天下統一を目前にしていた信長はこの寺院に逗留していた際、重臣の明智光秀の軍勢に襲撃されて自害することを余儀なくされ、その際の兵火によって寺院も焼失した。いわゆる本能寺の変である。この後、光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れて没落し、秀吉が新たに政権を掌握した。秀吉は天正15年(1587年)に区画整理を行ない、本能寺を現在の地に移している。
江戸時代に入り、同時代中期の天明8年(1788年)の大火で、さらに幕末の元治元年(1864年)の兵火により本能寺は焼失した。現在の本堂は昭和3年(1928年)に再建されたもので、境内南側に塔頭七院、北側の御池通に面して本能寺会館がある。本堂、表門、信長公御廟所拝殿が平成25年12月24日文化財に登録された。
境内には織田信長供養等や歴代住職の墓所、本能寺の変の際に信長に従って戦死した家臣の墓、花供養塔、江戸時代後期の南宋画家である浦上玉堂・浦上春琴父子の墓などがあり、寺宝には藤原行成筆とされる国宝指定の書巻や仏画、墨蹟、絵画、茶器、古文書などが存在する。
寺について[編集]
国宝について[編集]
- 藤原行成筆書巻 - 縦29.4センチ、全長188.2センチの雲母摺り文様のある唐紙4枚を継いだものに『和漢朗詠集』に収められている野相公、菅丞相、紀納言の3人の章句が書いてあるもので、古くから権跡と伝えられて有名なものである。権跡とは日本書道上三跡のうち、小野道風を野跡、藤原佐理を佐跡というのに対して、行成が権大納言であったことから権跡と呼んだのだという。ただし、これには行成の書名が無い。行成様の顕著な特徴があり、書体は行体、草体で交え、大字、小字の2種で書かれている。古筆では本能寺切と呼んで尊重している。
アクセス[編集]
- 京都市営地下鉄東西線「京都市役所前駅」下車すぐ。