佐藤忠能
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佐藤 忠能(さとう ただよし、? - 天正6年3月29日(1578年5月5日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。三省。受領名は紀伊守。加治田城城主。父は佐藤清房、母は徳林妙福大姉、兄弟に佐藤秀清。子に忠康(信氏)、佐藤昌信、斎藤利治室、佐藤継成室、仁甫竜義大姉、岸信周養女(八重緑)。養子に斎藤利治がいる。斎藤氏、次いで織田氏の家臣。
生涯[編集]
名は「三省」とも伝わるが、これは法名である可能性がある。美濃国加治田城主として最初は斎藤氏に仕えた。
永禄8年(1565年)に丹羽長秀を通じて織田信長に降伏したため、斎藤方の長井道利に攻められるが、信長の援軍を得て逆に9月28日に堂洞城を攻めた。堂洞城攻略後、信長は佐藤家の居城である加治田城に入城し、息子の佐藤右近右衛門の所に宿泊している。しかし、右近衛門は同年に戦死し、さらに斎藤家に出していた人質の娘も串刺しにされたという。
息子の右近衛門が戦死して跡継ぎを失った忠能は、斎藤利治を養子に迎えたという。ただ、加治田城を利治に譲って剃髪したのは事実であるが、養子にしたというのは疑問視されている。剃髪後は紀伊入道忠能と称してなおも政務を行なっているが、永禄10年(1567年)11月15日には利治の文書も確認されている。
天正6年(1578年)3月29日に死去した。