矢部家定
矢部 家定 やべ いえさだ | |||||||||||||||||||||
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矢部 家定(やべ いえさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣で、織田信長の側近を務めた。
生涯[編集]
通称は善七郎[1]。信長に仕えた時期は不明だが、『信長公記』では天正5年(1577年)8月に信長に対して反乱を起こした大和の松永久秀の人質を処刑する際の奉行を福富秀勝と共に務めているとある。さらに同書では天正7年(1579年)5月の安土宗論の際の奉行、12月には信長に反乱を起こした摂津の荒木村重の一族の処刑の際の検使、天正8年(1580年)8月に石山本願寺が信長と和睦して本願寺から退去した際の受け取り、検使などを務めている。
一次史料などからも、信長の側近として奏者を務めたり、信長の黒印状の副状の発給を務めている。天正10年(1582年)3月、武田征伐の際には信長に従軍し、馬廻衆の着到奉行を務めた。6月の本能寺の変で主君の信長が死去した際には、信長に同行していなかったのか難を逃れている[1]。
『兼見卿記』によると、山崎の戦いに織田信孝・羽柴秀吉側に属して参戦し、6月14日に信孝の奏者となっていることから、信孝に仕えたものと推定される。しかし、信孝に仕えた時期の活動などは不明である。
信孝滅亡後は秀吉に仕えたようで、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは110名の兵力を率いて秀吉方として参戦。同時期には秀吉の馬廻に列したとされ、天正15年(1587年)の九州征伐では100人の兵力で従軍し、秀吉本陣の前備に配置された(『久野保心氏所蔵文書』)。天正16年(1588年)4月の聚楽第行幸までに豊後守に叙任されていたようで、「矢部豊後守」として秀吉の牛車に供奉していることが確認されている[1]。
Wikipediaでは天正18年(1590年)以前に死去したとあるが、実際には同年の小田原征伐には100騎を率いて参加しており、文禄の役の際には肥前名護屋城に在陣している[1]。
没年は不明。家定には実子が無いとWikipediaには書かれているが、実際には自身と同じ通称を称した善七郎がいたと『譜諜余録』にあり、Wikipediaの信頼性の無さがよく表れている一例となっている。子息の善七郎は慶長7年(1602年)に徳川家康から近江蒲生郡内で1000石の知行を与えられて、江戸幕府の旗本となっている。子孫は後に出雲松江藩の越前松平家の家臣として続いた[1]。また、養子に定政を迎えていたとされるが、こちらは慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に属し、戦後に家康により改易されている[2]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]