波多野秀治
波多野 秀治(はたの ひではる、? - 天正7年6月8日(1579年7月1日))は、戦国時代の戦国大名・武将。丹波国多紀郡八上城主。
生涯[編集]
父は波多野晴通で長男。弟に波多野秀尚がいる。官途は左衛門大夫、右衛門大夫。
本家の伯父・波多野元秀の養子になって家督を継いだ。諱の秀治は元秀からの偏諱と見られる。
永禄3年(1560年)1月27日、正親町天皇の即位式に際して、安芸国の毛利元就を口説いて即位費用を献上させ、自らは上洛して京都の警備についたという。当時、丹波国は三好長慶の家臣で松永久秀の実弟である松永長頼に奪われていたが、長慶が死去して三好氏で内乱が始まった永禄9年(1566年)に奪回している。
永禄11年(1568年)9月、美濃国の織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、信長・義昭に服属した(『足利季世記』)。信長に太刀や馬を贈呈し、信長から書状で謝されている。元亀年間に信長と義昭の対立が決定的になった際には、信長に味方している。
天正3年(1575年)、丹波の奥3郡を支配していた赤井直正が信長から離反し、信長の命令を受けた明智光秀の侵攻が開始され、秀治ら波多野氏一族は光秀に属して戦うことになる。ところが天正4年(1576年)1月、一族の波多野宗長・波多野宗貞らと共に光秀軍を襲撃して信長に叛いた。
光秀は信長の命令で各地を転戦しており、また波多野・赤井の連携により平定に手間取るが、天正6年(1578年)には赤井直正が死去し、石山戦争にも一定の目途が立つようになったので、天正7年(1579年)から光秀は丹波攻めに注力するようになる。同年5月5日に宗長・宗貞らが守る氷上城が落城し、両者は自害して追い詰められる。そして八上城も6月1日に光秀によって落城。秀治は弟の秀尚と共に捕縛され、京都市中を引き回された上で近江国安土城に護送され、6月8日に弟の秀尚と共に磔に処されたという。『信長公記』では秀治の処刑日を6月4日としている。
この際、光秀の母親が八上城の開城条件として人質に差し出されていたとされ、その母親が信長の命令による秀治の処刑のために殺され、これが後の本能寺の変の原因になった、と言われているが、この母親人質説については当時の資料である『兼見卿記』『信長公記』などには見られず、後代の信用性の低い軍記などに現れる話であり、信用のおける話ではないといわれている。