浅井長政
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浅井長政 あざい ながまさ | |||||||||||||||||||||||
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浅井長政(あざい ながまさ、1545年8月28日-1573年9月26日)とは、近江国の守護大名及び戦国武将であり、浅井氏最後の当主。
生涯[編集]
1545年8月28日、小谷城にて出生。浅井家は六角氏に人質として見られていた。1550年頃、浅井長政に賢政と名乗らせ、六角氏との区別をつけた。
しかし六角氏による支配はエスカレートしていき、遂に1560年8月、堪忍袋の尾が切れた長政は六角氏へ謀反を起こした。計画は成功、六角氏は衰退した。それと同時に久政は隠居し、長政が浅井家当主となった。さらに長政は賢政から改名、長政へと改名した。
1565年頃、織田信長が浅井長政と同盟関係を結んだ。これにより1567年、お市の方が長政の下に嫁いだ。ここから3年間、良好な夫婦仲と同盟関係となっていた。[1]さらに嫁いだ翌年、お子様も産んだ。
1570年、信長・家康連合軍が朝倉領へ侵攻し、朝倉義景を裏切った。長政はこの時古くからの同盟関係にあった朝倉義景側についた。[2]そして7月30日に姉川の戦いが勃発。最初は長政軍が優勢だったものの、当時参戦していた竹中重治の戦法[3]により信長軍が優勢になり、最終的に信長軍の圧勝に終わった。
1572年、運は長政に味方した。武田信玄が徳川家康の領地に侵攻(三方ヶ原の戦い)。武田信玄は家康自身も恐怖で脱糞してしまう程の強さであった。このまま行けば武田軍の勢いで信長軍を打倒する事ができたかも知れなかった。
1573年、不幸は長政を襲った。信玄が病死し、信長包囲網も崩壊した。そして8月下旬、信長軍が再び長政の居城・小谷城に侵攻(小谷城の戦い)。これにより長政は城内で切腹した。享年29。お市とその子供は信長領の稲葉山城へと向かった。