甲府勤番支配
甲府勤番支配(こうふきんばんしはい)とは、江戸幕府の役職の1つである。甲斐国支配を職務とし、いわゆる「山流し」の閑職として有名だった。
概要[編集]
甲斐国は山国で貧しかったが、江戸とは甲州街道で結ばれて近く、駿河国に隣接していたことから、江戸幕府にとっては江戸防衛の重要拠点として位置づけられていた[1]。
享保9年(1724年)、第8代征夷大将軍・徳川吉宗は甲府藩主・柳沢吉里を大和国郡山藩に移封し、甲府藩を廃藩にして幕領とした。そして、新たに甲府勤番支配を設置し、この際に小普請組の200人を甲府に移住させた[1]。
甲府勤番支配は、配下に組頭や与力、同心などがいる。さらに勤番支配は追手勤番支配と山手勤番支配に分かれ、いずれも甲府城の守備を第一の任務とした。勤番支配には3000石以上の旗本が任命され、江戸城内では芙蓉の間に詰め、諸太夫に位置する格式の高いものに位置づけられていた。老中支配で、役高は3000石、役知行は1000石を与えられた[1]。
ただ、江戸という都会から甲府というド田舎に移されるので、役高はともかく多くの旗本はこの役職に就任することを非常に嫌がったといわれる。そのため、幕府も次第にこの役職につける者を素行不良のいわゆる愚連隊のような旗本に限るようになり、旗本たちからはいわゆる「山流し」として恐れられた。
幕府の旗本で非役だったり素行不良の者が任命され、その際に「数年で戻れる」と約束はされるが、実際には江戸に戻れるケースはほとんど無かったといわれている。そのため、旗本は長期間にわたって甲府勤番支配を勤めざるを得ず、その生活態度は荒れる一方となった[1]。
松平定信による寛政の改革が始まると、定信は勤番支配を勤めて素行の良い者を江戸に転居させるなどして、勤番支配の勤務内容を改善した。また寛政7年(1795年)、甲府勤番支配となった近藤政明は、幕府に対して甲府学問所の設置を要望して実現させる[注 1]など、幕臣の教化に尽力した[1]。
幕末の慶応2年(1866年)、甲府勤番支配を廃止[1]。甲斐国内は、府中・市川・石和の3県、甲斐府、甲府県と短期で目まぐるしく行政区画が変化したが、1872年(明治4年)に山梨県となった。
脚注[編集]
- 注
- 出典