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(はん)とは、明治時代初期、従来の大名の領地の名称を変更したものである。

名称[編集]

1868年、明治政府は徳川幕府旧領を接収して、奉行が置かれた地を中心に裁判所を設置し、後にの名称に改めた。江戸時代以来の1万石以上の大名の所領、および統治機構は版籍奉還と共に、大名を改めて藩知事に任命して従来どおりの治政を行い、知行地は藩と名付けられた。
江戸時代には公式にこの名称で呼ばれることはなく、旗本の知行地を含めて「〇〇領」と呼ばれることが殆どで、一部の学者が中国封建体制下での封建領主が治めていた地域名を日本の封建体制に名付けたに過ぎなかった。

インドではムガール帝国直轄地以外のマハラジャなどの貴族が支配していた地域を藩王国(英語でプリンスリー・ステイト、ヒンディー語では国により呼び方が異なる)と言い、英領インド帝国でも変わらず、インド独立によって消滅した。

概要[編集]

平安時代以降、荘園などの農地の領主が武士となり、武士が自らの所領を経営する形態ができあがってきた。これが藩の原型である。以降、戦国時代において勝者が所領を広げていった結果、1万石以上の大規模な所領を持つ武士も多数現れた。こうした大規模な所領のこと、特に江戸時代の所領のことを藩と呼ぶ。ヨーロッパでいう領邦に近い。

藩主は江戸時代武家諸法度に則った領地朱印状発行や参勤交代などによって徳川家、あるいは大大名の家来という扱いであったが、藩内は事実上藩主が施政権を握って、実権を持っており、江戸時代は事実上連邦国家であったと言える。

明治時代初期の日本には、約300の藩が存在したが、わずか数年で明治の中央集権政策の一つである廃藩置県によりに置き換えられ、日本国地方出先機関という扱いになった。その後県の再編が行われ、現在の県と当時の藩の領域は大きく異なっており、域レベルだった藩も少なくなかった。

なお、幕府と同じように藩にもそれぞれ職制があり、それらの機構は藩により多少の違いはあれど、ほとんど幕府に似ていたものが多い。

主な藩[編集]

大規模な藩には、外様大名が多い。これは、豊臣時代に、譜代大名が徳川家の直臣であったのに対し、外様大名は、徳川家と力の差はあるが対等な立場であった大名に由来するためである。

脚注[編集]

  1. 明治5年(明治5年)から

関連項目[編集]