五奉行
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五奉行(ごぶぎょう)は、安土桃山時代の末期に成立した職制の1つである。主に豊臣政権下の内政を担当した。
概要[編集]
豊臣秀吉時代の末期に成立した職制である。ただし、この5名は豊臣政権成立前後から奉行として職務にそれぞれ当たっていた。
五奉行の職名は『太閤記』からの記録が初めて確認される。一次史料では浅野長政に宛てた豊臣秀吉の遺言状などから「年寄」と記載されているため、政権における老職を意味すると見てよいと推定される。
5奉行のうち、浅野・増田・石田は秀吉の子飼い、前田は織田信長の家臣から没後転身、長束は丹羽長秀の家臣からの没後転身である。秀吉存命中はその信任を背景にして、奉行として権勢を大いに振るったが、秀吉没後は五大老と合議して政権運営を行うことになる。
しかし、慶長4年(1599年)閏3月に石田が七将事件で失脚して佐和山に隠退を余儀なくされ、10月には浅野長政が甲府に謹慎を余儀なくされて、五奉行制度はほとんど抜け殻同然となる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで長束は西軍に属して敗戦後に自殺。増田は徳川家康により改易に処され、これにより五奉行制度は解体。徳川政権下の御年寄衆に移行した。