柳沢吉里

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柳沢 吉里(やなぎさわ よしさと、貞享4年9月3日1687年10月8日) - 延享2年9月6日1745年10月1日))は、江戸時代中期の譜代大名で、甲斐甲府藩の第2代藩主、後に大和国郡山藩の初代藩主となる。郡山藩柳沢家2代。

生涯[編集]

父は甲府藩の初代藩主の柳沢吉保。母は側室飯塚染子という。弟に長暢安基経隆時睦米倉忠仰保経ら。子に信睦時英信鴻信昌伊奈忠敬坪内定規、娘(大久保忠興正室)、娘(戸沢正諶正室)、娘(堀親長正室のち戸田忠倚室)ら。正室は頼子(酒井忠挙の娘)。官位は従四位下、越前守、伊勢守、侍従、甲斐守。

宝永6年(1709年)に第5代将軍徳川綱吉が死去し、養子徳川家宣が第6代将軍に就任すると、それまで大老格として権勢を振るっていた吉保は隠居し、家督を吉里に譲った。以後、吉里は藩政を積極的に見て幕政にはほとんど関与しなかった。

享保9年(1724年)、大和国郡山藩移封される。延享2年(1745年)9月6日に死去した。享年59。跡を4男の信鴻が継いだ。

落胤説[編集]

吉里は徳川綱吉の御落胤とする説がある。『三王外記』では綱吉の跡は家宣が継承することが決定していたにも関わらず、一部で吉里を擁立する動きがあったとしている。

また、以下のように綱吉の吉里あるいは吉保に対する厚遇が異常だった点も、落胤説を疑わせる原因になっている。

  • 綱吉は柳沢屋敷に58回も御成をしているが、その際にわずか5歳の吉里に御目見えを許した。
  • 御成になるたびに、綱吉は吉里に対して名刀、駿馬を送った。
  • 元禄14年(1701年)11月に15歳で元服するが、江戸城で、しかも綱吉から来国俊の名刀、相州広光の脇差を与えられた上、偏諱を授かって吉里と称した。さらに松平の称号を許され、16歳の時には藩主になっていないにも関わらずに侍従の高位まで与えられた。なお、柳沢氏は綱吉の寵臣とはいえ、松平姓を許されるような家柄ではない。
  • 御成の際に染子に綱吉の手がかかり、生まれたのが吉里とされる。
  • 綱吉が吉里に対して甲府に100万石の所領を与えることを約束したお墨付きを与えたとする説がある。

偏諱を与えた人物[編集]

上記以外に、孫(信鴻の子)のから、(里之の子)、(里世の婿養子)と3代にわたって「」の字を使用している。

登場作品[編集]

外部リンク[編集]