今川範政
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今川 範政(いまがわ のりまさ、正平19年/貞治3年(1364年[1]) - 永享5年5月27日[1](1433年6月14日))は、室町時代前期の駿河の守護大名。駿河今川家の第4代当主。官途は民部大輔・上総介[1]。父は今川泰範[1]。兄弟に泰国、範信。正室は上杉朝顕の娘。子に範豊、範忠、範満、小鹿範頼。
生涯[編集]
応永16年(1409年)に父の死去により家督を継いで当主となる[1]。応永21年(1414年)に駿河の守護に任命された[1]。応永23年(1416年)に鎌倉で上杉禅秀の乱が起こって鎌倉公方の足利持氏が駿河に亡命してくるとこれを庇護し、室町幕府の第4代将軍・足利義持の命令を受けて持氏を支援し、関東の諸氏に呼びかけて鎌倉に攻め入って乱の平定に寄与した[1]。
その後、持氏が室町幕府の将軍・足利義持や第6代将軍・足利義教との対立を深めると範政は幕府の意を受けて関東の監視役を勤めた[1]。永享4年(1432年)に足利義教が富士山遊覧のため駿河に下向した際にはこれを迎えて持氏の牽制を務めた[1]。
ところが晩年の範政は末子を溺愛して家督を譲ろうとしたため、それに不満を抱いた範忠ら諸子が国人を巻き込んで激しい家督争いを展開するに至る[1]。足利義教は関東政策への対抗上から末子への家督相続を許可せず、家督争いを解決できないまま範政は永享5年(1433年)5月27日に死去した[1]。享年70[1]。法名は今林寺慶岳道賀[1]。没後の翌年、足利義教は調停に乗り出して家督相続者は範忠に決定し、反対派は悉く鎮圧された[1]。
範政自身は和歌や書に優れた文化人でもあった[1]。