強姦の歴史

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蛮族の性奴隷とされるローマ人女性たち。アッリアにおける敗戦後。

強姦の歴史(ごうかんのれきし)では、世界史上の性暴力について説明する。

神話[編集]

強姦は神話の時代から存在した。ギリシア神話においてゼウスエウローペーを誘拐して強姦しているし、女神デメテルは複数の男に無理やり犯されて妊娠している。仏教の伝説では龍樹が透明人間となって、宮殿の美女をつぎつぎとレイプしたとされる。『旧約聖書』においてはタマルディナレビ人のそばめなどの事例がある。また、『コーラン』には、聖母マリアがローマ兵士に強姦されて妊娠したことを示唆する記述が存在する。

イリオスの王女カッサンドラーが敵軍によって強姦されたという神話が示すように、古来より戦争には兵士による女性の強姦が付き物であった。陥落した都市や城塞、征服された民族、捕虜となった少なからぬ女性は(戦った兵士への褒美や敵への見せしめという意図もあり)強姦の対象になった。

前近代の西洋[編集]

古代ギリシア・ローマ[編集]

古代ローマにおいては、建国神話のなかに多数の強姦の事例が含まれる。アルバ・ロンガの王女レア・シルウィアは、父が殺されると、叔父によって幽閉され、ウェスタの巫女として処女であることを義務付けられた。だが、川へ水を組みに行った際に、美しいレアに欲情した男によって強姦され、妊娠してしまった。レアは戦争の神マルスに犯されたのだと言ったが、リウィウスによれば、これはどこの誰とも知れぬ男であったと考えられる。一説によれば、彼女を犯したのは叔父のアムリウス自身であったともいう。

そのレア・シルウィアの子として生まれたのが、ローマ建国の祖ロムルスである。彼は都市の維持のためヘルシリアをはじめとするサビニの女たちの略奪を行った。彼女たちの大半は処女だったが、子孫を残すためにローマの人々にあてがわれた。

ローマにおいて、最も有名な強姦された女性は、ルクレティアであろう。彼女はローマの王子によって強姦された結果、自殺した。この強姦はローマ王政の崩壊につながった。その後、紀元前397年のアッリアの戦いの敗戦により、ローマははじめて異民族による略奪を受けた。この際、ウェスタの処女を含む多数の市民女性が性奴隷として連れ去られた。

一方で、紀元前4世紀のアレクサンドロス大王軍にも多数の女性が含まれており、娼婦や女性捕虜は強姦されていたと考えられている。また、クセノポンのギリシア人傭兵部隊の性欲処理の対象には、多数の若者や少年も含まれていた。

古代ローマ社会において処刑される処女は必ず強姦された。例えば、15歳だったセイヤヌスの娘が、そのように扱われたことをタキトゥスが記録している。キリスト教信者の女性もしばしば強姦の危険にさらされた。彼女たちは貞操を守ることが求められる一方で、教義で自殺が禁じられていた。そのため、キリスト教信者の多くが処刑されたが、前述のとおり処女であれば強姦されてから殺された。信者の少女であった有名な聖アグネスは全裸で市中を引き回された上、売春宿に送られた。ここで売春を強要され、その後、死刑執行人に強姦されて殺害された。ただし、伝承では彼女の純潔は奇跡的に守られたとされている。

ローマ帝国の衰退にともない、ゴート族の侵攻が行われるようになると、以後は3度にわたって略奪が行われ、大規模な強姦が起こった。なかでも455年のローマ略奪は過酷を極めたが、その発端はローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世が臣下の妻ルキニアを強姦したことにある。皇帝はルキニアの夫であるペトロニウス・マクシムスに暗殺された。彼は自ら帝位につくと、先帝の妃であるリキニア・エウドクシアと強引に婚姻した。そして、リキニア・エウドクシアは、強制された結婚から逃げ出すためにヴァンダル族のガイセリックに助けを求めた結果、ローマは蛮族に蹂躙されることとなった。皇帝は殺害され、多くの市民女性が凌辱されるなか、リキニア・エウドクシア自身と、その長女である16歳のエウドクシア、次女の12歳のプラキディアがヴァンダル族の妾とされた。彼女たちは連れ去られたまま7年間にわたって解放されず、エウドクシアは妊娠・出産した。

中・近世のヨーロッパ[編集]

その後、ローマが滅ぶと、西洋には暗黒時代が訪れた。8世紀以降、国家が分裂し、小規模な軍隊が作られたことで、軍による強姦はより散発的に起こるようになった。いわゆる初夜権などによって、領主による性的収奪が行われ、処女が実質的に強姦されることもあった。また、支配者層の女性でも、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の皇后、エウプラクシアは、夫の性的嗜好により、貴族の男たちとの乱交を強要され、父親不明の子を妊娠さえしている。支配者層が変更されれば、旧支配者の一族の女性は高貴な身分でありながら強姦されることもあった。キリキア・アルメニア王国の幼い女王イザベル1世は15歳でありながら、牢に監禁され、叛逆者の息子に犯された。東欧においては、10世紀にポロツク公女ログネダやギリシア人修道女が、聖ウラジミールによって強姦された事例がある。シチリア王国の王女ベアトリーチェ・ディ・ホーエンシュタウフェンは、父王が敗死すると、新たな王に監禁され、年若い母とともに9歳のころから凌辱を受けていた。ベアトリーチェは22歳のときに解放され、貴族と結婚したものの、別の男に略奪されて慰み者となった。

14世紀以降、人口の増加もあり、西洋では傭兵が溢れかえった。国家はそれら傭兵を養うだけの財産がなく、強姦する部隊が増加した。有名な事例では、イングランド出身の傭兵隊長ジョン・ホークウッドは、町を占領すると、その町の娘たちを全裸として組織的に輪姦した。また、三十年戦争においてマクデブルク市が陥落した際、大多数の市民が虐殺された後、生き残った約5000名の女性はすべて皇帝軍の傭兵の慰み者とされた。これに対し、百年戦争(1337年 - 1453年)の頃に強姦犯に有罪を宣告して、実行する基本的な方針が形成された。

異端審問魔女狩りの際には、しばしば拷問の一環として強姦が行われた。もっとも有名な犠牲者はジャンヌ・ダルクだろう。『ジャンヌ・ダルク復権裁判』中の証言によれば、男装をやめた彼女はイギリス人たちによって輪姦され、その後、牢内で嗚咽をもらしていたとされる。

カトリック教会の聖職者らの少年へのレイプが古代・中世にどのくらい存在していたのかどうかは不明だが、少なくとも18世紀には深刻な問題として認められていた(『サクラメントゥム・ペニタンツィエ』、1741年)。しかし、21世紀になるまでほとんど表面化しなかった。

東欧においては、17世紀に美しいロシア皇女クセニヤ・ゴドゥノヴァが、敵将に強姦され、5ヶ月ものあいだ性奴隷とされていた事例がある。

近世以降、西欧諸国は各地に植民地を作るが、これらの地においては、しばしば先住民が支配者の性奴隷とされた。例えば、インカ帝国が滅亡すると、皇女キスペ・シサをはじめとする多くの女性がピサロたちに性的に奉仕させられた。一方で、植民地において支配者が統治に失敗すると、支配者側の家族の女性が凌辱されることもあった。たとえば17世紀、鄭成功によって台湾オランダから奪回されると、オランダ人女性たちは中国人兵士の慰み者となった。宣教師アントニウス・ハンブルクの娘の10代の少女たちも、鄭成功の妾とされている。

東洋[編集]

古代[編集]

儒教倫理が確立する前の古代中国では、性倫理が確立されていなかった。春秋戦国時代には、ある国の君主が死ぬと、新たな君主は先代の君主の側室たちを襲ったという。

漢文においては、強姦のことを「逼辱」と記載する。「後漢賊臣董卓廟議」では董卓軍が洛陽に侵入した際に「逼辱妃嬪」したと記している。

中国史では北方の遊牧民族と漢民族の衝突が繰り返し起き、前者によって後者の女性たちが性奴隷とされることがしばしばあった。特に五胡十六国時代は戦乱の時代だったため、この種の強姦が頻発している。西晋の皇后、羊献容梁蘭璧、皇女の武安公主らは北方の遊牧民族に輪姦された。東晋の皇后・庾文君も反乱軍に捕らわれて輪姦され、絶望のうちに死んだ。また、の皇女である溧陽公主は父祖を害した侯景の妾とされ、寿陽公主爾朱世隆に手籠めにされかけて殺された。の皇女であった宣華夫人陳氏は、陳を滅ぼした文帝煬帝の親子2代にわたってその側室とされている。

一方で、皇帝・君主による性的収奪も大規模に行われた。北魏の皇族女性安徳公主たちは、北斉の文宣帝に公開凌辱されている。その文宣帝の皇后李祖娥は美貌で知られたが、後に即位した武成帝に強姦され、妊娠させられている。高麗では忠恵王も、先王妃慶華公主元朝の皇女)を強姦している。

北宋と金[編集]

靖康の変によって北宋が滅亡した際、軍の兵士によって首都開封の多くの女性が強姦され、金へと連行された。北宋の皇帝だった徽宗は猟色家として有名で、150人以上の美女を後宮に入れていたが、彼女たちのほとんどは金の将兵に戦利品として分配されるか、洗衣院という官設の娼館に入れられた。皇女(帝姫)や欽宗高宗その他の皇族や官吏の妻も同様の境遇となった。欽宗の皇后である朱皇后は自殺した。柔福帝姫、高宗の妻邢秉懿、徽宗の妃の新王婕妤たちが父親不明の子を妊娠させられたことや、幼い皇女たちが将来の性奴隷として洗衣院で育てられたことなどが、『靖康稗史箋證』に記録されている。

金の廃帝・海陵王は、臣下の妻を数十名も強奪し、姉妹や母娘(蒲察阿里虎完顔重節)をまとめて後宮に入れた。また、妊娠している宮女を無理やり堕胎させて強姦したともされる。こうした暴虐が重なったため、彼は暗殺されたという。

モンゴル以後[編集]

より有名なのは、モンゴル帝国の創始者チンギス・ハーンとその係累・後裔による強姦であろう。帝国による降伏勧告を受け入れず、抵抗の後征服された都市は、ことごとく破壊・略奪・殺戮され、女性も戦利品として王侯・軍隊などの権力者以下にあてがわれた。世界各地の男性のY染色体を調べた結果、かつてのモンゴル帝国の版図に高率で、共通の染色体が検出されたという話さえある(ブライアン・サイクス著『アダムの呪い』参照)。ただこれに関しては、モンゴル帝国以前からシルクロード一帯で勃興・滅亡を繰り返していたと言われる遊牧騎馬民族の西進がもたらした影響を割り引く必要がある。もっとも、チンギス・ハーンの妻であったボルテも、メルキト部に捕らえられた際に強姦されて妊娠したと考えられている。

明の滅亡の際にも、統制のとれない李自成軍は首都陥落時に大規模な強姦を行ったといわれる。懿安皇后張氏陳円円がその犠牲となった。平陽烈婦のように、地方反乱軍による被害もあった。

前近代の日本[編集]

古代[編集]

『日本書紀』には穴穂部皇子が推古天皇を強姦しようとして押し入ったことが記されている。奈良時代には、藤原仲麻呂が敗死した後、娘の藤原東子が仙人に輪姦されたという伝承が伝わる。

平安時代の日本では、『源氏物語』においてしばしば強姦が描かれている。また、『今昔物語』においては、寺社参りに行った若い未亡人とその侍女である少女が盗賊に強姦される描写がある。貴族のあいだでも強姦が横行した。例えば、観峯女大江至孝らによって自邸を襲撃された上で強姦された事件がよく知られている。寛仁4年(1020年)に藤原惟通の未亡人が強姦された際には、犯人である平為幹は逮捕されたものの翌年には赦免されてしまった。平安末の法住寺合戦においては、源義仲の軍勢が撃ち入った後、後白河院に仕える女房たちの多くが全裸とされていた。

中世[編集]

鎌倉時代後期ごろまでは性倫理が曖昧で、後深草院二条のように、貴族の少女でありながら、多くの男性に弄ばれる者も存在した。

戦国時代には、戦いの後に乱妨取りと呼ばれる略奪が起こり、多くの女性が凌辱された。小田井原の戦いの後、武田氏は志賀城に籠城していた男女を人身売買し、城主の笠原清繁夫人が敵方の妾とされた事例がある。

近世[編集]

[[[江戸時代]]においては、1747年に制定された公事方御定書下巻(いわゆる御定書百箇条)では「強姦をした者は重追放手鎖」「幼女強姦をした者は遠島」「輪姦をした者には獄門もしくは重追放」などそれぞれ重罰が科せられていた。このような厳罰にもかかわらず、江戸の町の夜には、女性の悲鳴が絶えることがなかったという。

幕末の戊辰戦争においては会津若松城下などで大規模な強姦が行われたとされており[1]神保雪子などの女性が犠牲になった。

また、幕末期の女性医師楠本イネは、師匠にあたる人物に処女を奪われて妊娠した。その結果生まれた楠本高子も医学を志したが、医師によって強姦されて妊娠している。この事例は、女性が伝統的な社会の枠組みを破り社会に進出することがいかに困難であったかを物語っている。

近・現代の世界[編集]

アメリカ合衆国ではピューリタンの植民地でレイプを死刑と定めた。死刑の罪状としてレイプというものがあり、多くの黒人が処刑された。南部を中心に、レイプを死刑とする動きは続いた。だが、1972年にレイプを罪状とする死刑にアメリカで違憲判決が出された[2]。1970年代以来、女性解放運動により社会的情勢・法的態度は変化した。また、1980年代以降認知されてきた男性に対する性的暴行をどう扱うか、という問題に関しては、現在複数の州で様々な形で法改正がなされてはいるが、主に社会的バイアスのためにアメリカ合衆国でもまともな形でケアが存在しているとは言いがたい。

近代から現代、戦時下において各国軍隊による敵国女性へのレイプが少なからず発生した。日中戦争における、日本軍兵士の中国人女性へのレイプ、独ソ戦におけるドイツ軍兵士によるロシア人女性に対するレイプ、第二次世界大戦終戦直後の被占領地域において、ソ連軍(流刑囚)によるドイツ人女性や日本人女性へのレイプが多発した。また朝鮮半島において、朝鮮人やソ連兵、中国人による日本人女性(引揚者)へのレイプ被害が多発した。

ベトナム戦争中、アメリカ軍兵士によるベトナム人女性の強姦、買春も多発し、混血児が多数存在している。また韓国軍兵士やビジネスマンによるレイプ、買春によって多数の混血児(ライタイハン)が生まれ、問題になっている(数については1千5百から3万と諸説ある。また9割は韓国人ビジネスマンとの子との指摘もある)。1998年に当時の金大中大統領は『ハンギョレ新聞』の報道を受けて、これらのベトナム戦争における韓国軍の残虐行為に対する謝罪の意を訪韓中のベトナム首脳に表し、また補償の開始を命じた。だが、反共の野党ハンナラ党の反対もあって、現在も補償は全く進んでいない。

民族浄化の手段としても、しばしば強姦は用いられる。1990年のクウェート侵攻イラク軍はクウェート女性を襲い、1994年にルワンダフツ族軍がツチ族女性を襲うなどの事例も発生している。1991年から1995年のボスニア紛争では、セルビア民兵ムスリム人女性を強姦していた。ボスニア紛争では、捕らえた女性たちを収容所に入れて組織的に強姦しており、妊娠後、中絶が不可能となるまで解放しなかったという。イスラム国では組織的に少数民族の女性に対して、性暴力を行っていることが知られる。

1973年11月27日に、インドムンバイの病院で発生した強姦事件では、病院に勤務する女性看護師が被害に遭った。看護師はその際意識を失い、以後40年近くに渡って意識を取り戻さないまま、2015年5月18日に死去した(参照)。犯人の男は7年間の服役の後釈放されている。近年でもインドではバスの車内における集団強姦が社会問題になり、大規模なデモが発生した。日本人女性もしばしばインドでレイプされており、2015年には22歳の女子大学生が3週間にわたって監禁されて強姦された事件が発生した。

近・現代の日本[編集]

日本では1907年(明治40年)に刑法が制定されたが、その当時強姦罪は娘と妻を性的に家父長の支配下に置こうとするものであった。つまり、女性の性的自由ではなく、男性の所有物としての女性を保護するためという女性差別的な発想があった。現在も強姦の裁判実務では不備が様々指摘される。

近代の日本において、米軍に所属する将兵による強姦事件が多発している。沖縄県では、1972年本土復帰以降、米軍の強姦事件が、明るみに出ているだけで120件以上発生している(jawp:占領期日本における強姦)。

女子高生コンクリート詰め殺人事件などの未成年強姦殺人では少年という壁が問題視される。テンプレート:誰2バッキー事件のようなAV業界による強姦事件も存在する。福田和子らが被害者となった松山刑務所事件など、刑務所内強姦も存在する。尊属殺法定刑違憲事件のように近親姦の問題もある。また、スーパーフリー事件京都大学アメフト部レイプ事件慶應大学医学部レイプ事件など、大学生による強姦事件が起きている。施設内においても恩寵園事件埼玉児童性的虐待事件和歌山少年暴行事件など性的暴行事件が起きている。

脚注[編集]

  1. 『会津落城 戊辰戦争最大の悲劇』中央公論新社、2003年。
  2. 性と人権̶性的暴力を許さないために 大阪大学 松島哲久

参考文献[編集]

  • 『強姦の歴史』ジョルジュ・ヴィガレロ 著 藤田真利子 訳 ISBN 4-87893-322-4

関連項目[編集]