強姦の歴史

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蛮族の性奴隷とされるローマ人女性たち。アッリアにおける敗戦後。

強姦の歴史(ごうかんのれきし)では、世界史上の性暴力について説明する。

何をもって「強姦」とするかという、強姦の概念については、時代と地域によって大きく異なる。が、「女性(あるいは男性)の意思に反する性行為」は古代から存在したことは間違いなく、本項目ではそうした行為を広く「強姦」と捉え、古代から現代まで、西洋東洋日本の地域ごとに具体的な事例を挙げる。

特に少数民族のような社会的弱者はしばしば集団での大規模な性暴力にさらされた。一方、戦時においては、敗者の側の女性はしばしば勝者の兵士たちによる慰み者とされ(戦時性暴力)、その対象には後述するようにしばしば王女や后といった上層階級に属する女性も含まれている。

聖書と強姦[編集]

世界最古の本とも称される『旧約聖書』には、しばしば強姦の描写がある。その冒頭の「創世記」では、ヤコブの娘ディナ(デナ)が凌辱された。彼女は家族とともにシェケムの町に滞在したが、その地の男に捕らえられ辱められたのである。「シケムが彼女を見て、引き入れ、これと寝てはずかしめた」また「彼らが妹を汚したからである」と書かれているとおり、これは強姦だった。その後、ディナは兄弟たちの手によって救出された。

さらにサムエル記ではダビデの王女タマルが異母兄に襲われ、強姦されている。より悲惨なのは、士師記に登場するレビ人のそばめである。彼女は、旅のさなか大勢の男に捕らえられて夜通し輪姦された。

彼らはその女を犯して朝まで終夜はずかしめ、日ののぼるころになって放し帰らせた。

士師記

結局、彼女は全裸で宿に戻るも、門の前で倒れ、そのまま死去した。

西洋[編集]

古代ギリシア[編集]

イリオス陥落後、小アイアースに凌辱される王女カッサンドラー

古代ギリシアにおいては、ギリシア神話において強姦がしばしば描かれている。ゼウスエウローペーを誘拐して強姦しているし、女神デメテルは複数の男に無理やり犯されて妊娠している。

イリオスの王女カッサンドラーが敵軍によって強姦されたという神話が示すように、古来より戦争には兵士による女性の強姦が付き物であった。同じトロイア戦争では、捕虜となった神官の娘クリュセーイスが敵将アガメムノンに性的奉仕を強いられ、望まぬ妊娠をしたという説話もある。アガメムノンは、愛娘の解放を求める神官に言い放った[1]

わが舘の中、機に寄り、閨に仕へて老齡の逼らん時の來る迄、なんぢの愛女放つまじ

また、英雄アキレウスも、金髪碧眼の美女ブリーセーイスを性奴隷としている。彼女は家族をアキレウスに殺害され、後にアガメムノンに引き渡され弄ばれた。このように、陥落した都市や征服された民族の少なくない女性・少女がしばしば捕虜となり、戦利品や見せしめとして強姦の対象になったとかんがえられる。

紀元前4世紀のアレクサンドロス大王軍にも多数の女性が含まれており、娼婦や女性捕虜は強姦されていたと考えられている。また、クセノポンのギリシア人傭兵部隊の性欲処理の対象には、多数の若者や少年も含まれていた。

古代ローマ[編集]

古代ローマにおいても、建国神話のなかに多数の強姦の事例が含まれる。アルバ・ロンガの王女レア・シルウィアは、父が殺されると、叔父によって幽閉され、ウェスタの巫女として処女であることを義務付けられた。だが、川へ水を組みに行った際に、美しいレアに欲情した男によって強姦され、妊娠してしまった。レアは戦争の神マルスに犯されたのだと言ったが、歴史家リウィウスによれば、これはどこの誰とも知れぬ男であったと考えられる。一説によれば、彼女を犯したのは叔父のアムリウス自身であったともいう。

そのレア・シルウィアの子として生まれたのが、ローマ建国の祖ロムルスである。彼は都市の維持のためヘルシリアをはじめとするサビニの女たちの略奪(The rape of the Sabine women)を行った。男ばかりのローマ人たちは、祭りと偽りザビニ族を呼び寄せ、その少女たちを騙して拉致したのだ。彼女たちの大半は処女だったが、子孫を残すためにローマの人々にあてがわれ、やがて望まぬ子を孕んだ。

ローマにおいて、最も有名な強姦された女性は、ルクレティアであろう。彼女はローマの王子によって強姦された結果、自殺した。この強姦はローマ王政の崩壊につながった。その後、紀元前397年のアッリアの戦いの敗戦により、ローマははじめて異民族による略奪を受けた。この際、ウェスタの処女を含む多数の市民女性が性奴隷として連れ去られた。

一方、ローマ人は占領地においてしばしば女性を陵辱した。ケルトの女王ブーディカは、ローマ人に欺かれ、半裸で鞭打たれ辱められた。それだけでなく、まだ10代の若い二人の娘もローマ人たちに輪姦された。また、『コーラン』には、聖母マリアの処女懐胎の真相が、ローマ兵士による強姦だったことを示唆する記述が存在する。この説はイギリスの放送局BBCの番組でも取り上げられた。

古代ローマ社会において処刑される処女は必ず強姦された。例えば、15歳だったセイヤヌスの娘が、そのように扱われたことをタキトゥスが記録している。キリスト教信者の女性もしばしば強姦の危険にさらされた。彼女たちは貞操を守ることが求められる一方で、教義で自殺が禁じられていた。そのため、キリスト教信者の多くが処刑されたが、前述のとおり処女であれば強姦されてから殺された。信者の少女であった有名な聖アグネスは全裸で市中を引き回された上、売春宿に送られた。ここで売春を強要され、処女を奪われた後、処刑されたとかんがえられる。ただし、伝承では彼女の純潔は奇跡的に守られたとされている。

ローマ帝国の衰退にともない、ゴート族の侵攻が行われるようになると、以後は3度にわたって略奪が行われ、大規模な強姦が起こった。アッリアの戦いの後、蛮族はローマの市民女性を襲い、さらにウェスタの巫女の処女を奪い、性奴隷とした。455年のローマ略奪も過酷を極めたが、その発端はローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世が臣下の妻ルキニアを強姦したことにある。皇帝はルキニアの夫であるペトロニウス・マクシムスに暗殺された。彼は自ら帝位につくと、先帝の妃であるリキニア・エウドクシアと強引に婚姻した。そして、リキニア・エウドクシアは、強制された結婚から逃げ出すためにヴァンダル族のガイセリックに助けを求めた結果、ローマは蛮族に蹂躙されることとなった。皇帝は殺害され、多くの市民女性が凌辱されるなか、リキニア・エウドクシア自身と、その長女である16歳のエウドクシア、次女の12歳のプラキディアがヴァンダル族の妾とされた。彼女たちは連れ去られたまま7年間にわたって解放されず、エウドクシアは妊娠・出産した。

中世[編集]

その後、ローマが滅ぶと、西洋には暗黒時代が訪れた。8世紀以降、国家が分裂し、小規模な軍隊が作られたことで、軍による強姦はより散発的に起こるようになった。いわゆる初夜権などによって、領主による性的収奪が行われ、処女が実質的に強姦されることもあった。また、支配者層の女性でも、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の皇后、エウプラクシアは、夫の性的嗜好により、貴族の男たちとの乱交を強要され、父親不明の子を妊娠さえしている。

支配者層が変更されれば、旧支配者の一族の女性は高貴な身分でありながら強姦されることもあった。キリキア・アルメニア王国の幼い女王イザベル1世は15歳でありながら、叛逆者に捕らえれて牢に監禁され、叛逆者の息子に犯された。イザベルは叛逆者の息子に結婚を認めるように迫られ拒絶したが、たびたび凌辱された挙句、子を孕むに及び、ついに屈服した。10世紀にポロツク公女ログネダやギリシア人修道女が、聖ウラジーミルによって強姦された事例がある。シチリア王国の王女ベアトリーチェ・ディ・ホーエンシュタウフェンは、父王が敗死すると、新たな王に監禁され、年若い母とともに9歳のころから凌辱を受けていた。ベアトリーチェは22歳のときに解放され、貴族と結婚したものの、別の男に略奪されて慰み者となった。

14世紀以降、人口の増加もあり、西洋では傭兵が溢れかえった。国家はそれら傭兵を養うだけの財産がなく、略奪そして強姦する部隊が増加した。有名な事例では、イングランド出身の傭兵隊長ジョン・ホークウッドは、町を占領すると、その町の娘たちを全裸として組織的に輪姦した。こうした状況に対し、1337年から1453年に及んだ百年戦争の時期には強姦を犯罪として扱う方針が実親されるようになった。

百年戦争におけるもっとも有名な強姦の犠牲者はジャンヌ・ダルクだろう。『ジャンヌ・ダルク復権裁判』中の証言によれば、男装をやめた彼女はイギリス人たちによって輪姦され、その後、牢内で嗚咽をもらしていたとされる。異端審問魔女狩りの際には、しばしば拷問の一環として強姦が行われたが、ジャンヌ・ダルクの強姦にはそうした拷問としての性格を有していたとかんがえられる。

近世[編集]

近世になっても傭兵はしばしば戦場に登場し、多くの地で略奪・強姦をはたらいた。また、、敗者の側に立った女性はたとえ皇女であっても犯されることがあった。17世紀、ロシア皇女クセニヤ・ゴドゥノヴァは、高い教養をもつ知的な20代前半の美人として広くヨーロッパに知られ、また未婚だったため処女であった。しかし、弟である皇帝が殺害された後、叛逆者に捕らえられ、宮殿で強姦された。そのあと、クセニヤは5ヶ月ものあいだ性奴隷とされていたという。クセニヤは修道院に監禁されて、一説によれば、ひそかに望まぬ子を産んだ。28際の時にも遊牧民によって修道院が襲撃され、その際には裸に剥かれ輪姦されている。

三十年戦争においてマクデブルク市が陥落した際、皇帝軍の傭兵は、大多数の市民を虐殺し、生き残った約5000名の女性をすべて慰み者として犯したとされる。

近世以降、西欧諸国は各地に植民地を作るが、これらの地において、しばしば侵略者は、先住民を性奴隷とした。例えば、インカ帝国が滅亡すると、皇女キスペ・シサをはじめとする多くの女性がピサロたちに性的に奉仕させられた。一方で、植民地において支配者が統治に失敗すると、支配者側の家族の女性が凌辱されることもあった。たとえば17世紀、鄭成功によって台湾オランダから奪回されると、オランダ人女性たちは中国人兵士の慰み者となった。宣教師アントニウス・ハンブルクの娘の10代の少女たちも、鄭成功の妾とされている。

アメリカ合衆国では植民地時代からレイプを死刑と定めていた。これによって、多くの黒人が処刑された。

近代・現代[編集]

二度の世界大戦の時代は、戦時性暴力が猛威を振るった時代でもあった。第一次世界大戦後、連合軍兵士はドイツを占領したが、兵士のなかには、アフリカ植民地出身の黒人も含まれていた。彼らはドイツ人女性を襲い犯し、これは「黒い恥辱」としてドイツで記憶されることとなった。

第二次世界大戦の際、ドイツ軍は売春婦を集めて兵士たちの慰安に当たらせたが、後にポーランドやウクライナの女学校から女学生を強制的に連行し、慰安婦にしたという。イギリスでは慰安所の類は作らなかったものの、インド駐留のイギリス兵が、10歳のインド人少女を押さえつけ無理やり犯していたという話もある。終戦後のポーランドでは、ソ連の兵士が多くの市民女性に強姦を働いた。ある修道院では若い修道女の全員が輪姦され、何人かは妊娠したという。映画『夜明けの祈り』はこのときの話を描いた映画である。またベルリンでは10万人から13万人もの女性がソ連の兵士に陵辱された。『ベルリン終戦日記―ある女性の記録』の著者である女性ジャーナリストは、ロシア語が話せたため、ソ連兵士に蛮行を止めるよう交渉を申し出るも、逆に彼女自身も多くの兵士に輪姦される結果に終わった。その後、彼女は身を守るために多くの将校に自ら性的奉仕をしなければならなくなった。

東洋[編集]

春秋戦国から五胡十六国まで[編集]

儒教倫理が確立する前の古代中国では、性倫理が確立されていなかった。春秋戦国時代には、ある国の君主が死ぬと、新たな君主は先代の君主の側室たちを襲ったという。

漢文においては、強姦のことを「逼辱」と記載する。「後漢賊臣董卓廟議」では董卓軍が洛陽に侵入した際に「逼辱妃嬪」したと記している。

中国史では北方の遊牧民族と漢民族の衝突が繰り返し起き、前者によって後者の女性たちが性奴隷とされることがしばしばあった。特に五胡十六国時代は戦乱の時代だったため、この種の強姦が頻発している。西晋の皇后、羊献容梁蘭璧、皇女の武安公主らは北方の遊牧民族に輪姦された。東晋の皇后・庾文君も反乱軍に捕らわれて輪姦され、絶望のうちに死んだ。また、の皇女である溧陽公主は父祖を害した侯景の妾とされ弄ばれた。寿陽公主爾朱世隆に手籠めにされかけて殺された。の皇女であった宣華夫人陳氏は、陳を滅ぼした文帝煬帝の親子2代にわたってその側室とされている。

一方で、皇帝・君主による性的収奪も大規模に行われた。北魏の皇族女性安徳公主たちは、北斉の文宣帝に公開凌辱されている。その文宣帝の皇后李祖娥は美貌で知られたが、後に即位した武成帝に強姦され、妊娠させられている

北宋と金[編集]

靖康の変によって北宋が滅亡した際、軍の兵士によって首都開封の多くの女性が強姦され、金へと連行された。北宋の皇帝だった徽宗は猟色家として有名で、150人以上の美女を後宮に入れていたが、彼女たちのほとんどは金の将兵に戦利品として分配されるか、洗衣院という官設の娼館に入れられた。皇女(帝姫)や欽宗高宗その他の皇族や官吏の妻も同様の境遇となった。欽宗の皇后である朱皇后は自殺した。柔福帝姫、高宗の妻邢秉懿、徽宗の妃の新王婕妤たちが父親不明の子を妊娠させられたことや、幼い皇女たちが将来の性奴隷として洗衣院で育てられたことなどが、『靖康稗史箋證』に記録されている。

金の廃帝・海陵王は、臣下の妻を数十名も強奪し、姉妹や母娘(蒲察阿里虎完顔重節)をまとめて後宮に入れた。また、妊娠している宮女を無理やり堕胎させて強姦したともされる。こうした暴虐が重なったため、彼は暗殺されたという。

モンゴル以後[編集]

より有名なのは、モンゴル帝国の創始者チンギス・ハーンとその係累・後裔による強姦であろう。帝国による降伏勧告を受け入れず、抵抗の後征服された都市は、ことごとく破壊・略奪・殺戮され、女性も戦利品として王侯・軍隊などの権力者以下にあてがわれた。世界各地の男性のY染色体を調べた結果、かつてのモンゴル帝国の版図に高率で、共通の染色体が検出されたという話さえある(ブライアン・サイクス著『アダムの呪い』参照)。ただこれに関しては、モンゴル帝国以前からシルクロード一帯で勃興・滅亡を繰り返していたと言われる遊牧騎馬民族の西進がもたらした影響を割り引く必要がある。もっとも、チンギス・ハーンの妻であったボルテも、メルキト部に捕らえられた際に強姦されて妊娠したと考えられている。。

高麗では忠恵王が暴君として多くの女性を強姦し、先王妃慶華公主元朝の皇女)もその犠牲となった。

永楽帝靖難の変で建文帝から帝位を奪った後、「永楽の瓜蔓抄」と呼ばれる悪名高い虐殺を行ったが、その際に多くの反対勢力の女性を陵辱させたといいわれる。『奉天刑賞録』の「教坊録」には「永樂十一年正月十一日,本司鄧誠等於右順門里口奏,有奸惡齊泰的姐並兩個外甥媳婦,又有黄子澄妹四個婦人,毎一日一夜,二十條漢子守著,年小的都懷有身孕,除夕生了小龜子」とあり、齊泰ら建文帝の忠臣の娘たちを性妓とし、二十人の男に昼夜を問わず嬲らせたことがわかる。そのうち年若かった彼女たちはすべて妊娠した。

明の滅亡の際にも、統制のとれない李自成軍は首都陥落時に大規模な強姦を行ったといわれる。懿安皇后張氏陳円円がその犠牲となった。平陽烈婦のように、地方反乱軍による被害もあった。

日本[編集]

古代[編集]

『日本書紀』には穴穂部皇子が推古天皇を強姦しようとして押し入ったことが記されている。奈良時代には、藤原仲麻呂が敗死した後、娘の藤原東子が1000人の雑兵に輪姦されたという伝承が伝わる。

平安時代の日本では、『源氏物語』においてしばしば強姦が描かれている。また、『今昔物語』においては、寺社参りに行った若い未亡人とその侍女である少女が盗賊に強姦される描写がある。貴族のあいだでも強姦が横行した。例えば、観峯女大江至孝らによって自邸を襲撃された上で強姦された事件がよく知られている。

無秩序な東国ではさらに事情が深刻であり、寛仁4年(1020年)に貴族・藤原惟通の未亡人が強姦された際には、犯人である平為幹は逮捕されたものの翌年には赦免されてしまった。平将門の妻である君の御前は敵兵に捕らえられると、激しい責め苦のすえ殺され、その侍女はみな慰み者となった。逆に将門は宿敵・平貞盛を破った際に、自軍の兵に女性を強姦しないように命じたが、実際には貞盛の妻・源護の妻・源扶の妻ら多くの女性が辱められた。『将門記』には下のように記されている。

女人の恥を匿さんがために、勅命を下すといえども、勅命より以前に、夫兵のために悉く虜領せられたり。なかんずく貞盛が妻は、剥ぎ取られて形を露わにして、更に為方なし。眉の下の涙は面の上の粉を洗い、胸の上の炎は心中の肝を焦る。

平安末の法住寺合戦においては、源義仲の軍勢が撃ち入った後、後白河院に仕える女房たちの多くが全裸とされていた。

中世[編集]

鎌倉時代後期ごろまでは性倫理が曖昧で、後深草院二条のように、貴族の少女でありながら、多くの男性に弄ばれる者も存在した[2]。室町時代中期頃から、甲府地方では山道を行く旅娘を襲い、「よばれる」と称して山小屋に監禁して輪姦する風習があったという[3]。この風習は昭和前期まで続いたといわれる[3]

戦国時代には、戦いの後に乱妨取りと呼ばれる略奪が起こり、多くの女性が凌辱された。小田井原の戦いの後、武田氏は志賀城に籠城していた男女を人身売買し、城主の笠原清繁夫人が敵方の妾とされた事例がある。大阪の陣では、多くの市民女性や豊臣方の女性がその場で強姦されたり、拉致されてりしている。

近世[編集]

江戸時代においては、1747年に制定された公事方御定書下巻(いわゆる御定書百箇条)では「強姦をした者は重追放手鎖」「幼女強姦をした者は遠島」「輪姦をした者には獄門もしくは重追放」などそれぞれ重罰が科せられていた。このような厳罰にもかかわらず、江戸の町の夜には、女性の悲鳴が絶えることがなかったという。

第11代将軍の徳川家斉には峯姫という娘がいたが、その侍女として、唐橋というものがいた[4]。唐橋は公家の娘であるとともに絶世の美女であり、家斉に性的関係を求められても断る誇り高い女性だった[4]。が、峯姫の輿入れ先で、姫の夫の弟弟にあたる徳川斉昭に一室に連れ込まれ、手籠めにされたという[4]。唐橋は妊娠し、京都にひそかに送り返された[4]

幕末の戊辰戦争においては会津若松城下などで大規模な強姦が行われたとされており[5]神保雪子などの女性が犠牲になった[6]

また、幕末期の女性医師楠本イネは、師匠にあたる人物に処女を奪われて妊娠した。その結果生まれた楠本高子も医学を志したが、医師によって強姦されて妊娠している。この事例は、女性が伝統的な社会の枠組みを破り社会に進出することがいかに困難であったかを物語っている。

近代[編集]

日本では1907年(明治40年)に刑法が制定されたが、その当時強姦罪は娘と妻を性的に家父長の支配下に置こうとするものであったとされる。

1908年 (明治41年)に、幸田ゑん子という美人の若い人妻が強姦されるという事件があり、「出歯亀」の語源となった。

水木しげるは、知り合いの兵士が日中戦争時にある村の村長の娘を輪姦した話を記録している[7]。その女性は若く、大学も出ており、とても美人だったが、一ヶ月にわたり彼らに強姦され、その後自殺した。逆に、通州事件では多くの日本人女性が強姦の憂き目にあい、敦化事件では日満パルプの社員寮にいた若い女性はみなソ連兵の慰み者となっている。

現代の世界と日本[編集]

社会のなかのレイプ[編集]

中国では、文化大革命のなか美人女優、孫維世が投獄され、彼女は同室の男性囚人に輪姦された[8]。衰弱死した彼女は、最期には手枷と足枷以外なにも身につけていなかった。

1973年11月27日に、インドムンバイの病院で発生した強姦事件では、病院に勤務する女性看護師が被害に遭った。看護師はその際意識を失い、以後40年近くに渡って意識を取り戻さないまま、2015年5月18日に死去した(参照)。犯人の男は7年間の服役の後釈放されている。近年でもインドではバスの車内における集団強姦が社会問題になり、大規模なデモが発生した[9]。日本人女性もしばしばインドでレイプされており、2015年には22歳の女子大学生が3週間にわたって監禁されて強姦された事件が発生した。

日本では、女子高生コンクリート詰め殺人事件などの未成年強姦殺人で少年という壁が問題視される。バッキー事件のようなAV業界による強姦事件も存在する。福田和子らが被害者となった松山刑務所事件など、刑務所内強姦も存在する。尊属殺法定刑違憲事件のように近親姦の問題もある。また、スーパーフリー事件京都大学アメフト部レイプ事件慶應大学医学部レイプ事件など、大学生による強姦事件が起きている。施設内においても恩寵園事件埼玉児童性的虐待事件和歌山少年暴行事件など性的暴行事件が起きている。

近年では性暴力被害者のワンストップ支援センターなどの整備も進んでいる。

戦争と強姦[編集]

現代の日本において、沖縄県をはじめ、米軍に所属する将兵による強姦事件が多発している(jawp:占領期日本における強姦)。終戦後には多くの女性・少女が犯され、妊娠することが絶えなかった。1996年でも、沖縄米兵少女暴行事件で12歳の少女が米兵に輪姦された。

そして第二次世界大戦の後も、戦争に強姦はつきものだった。ベトナム戦争中、アメリカ軍兵士によるベトナム人女性の強姦、買春も多発し、混血児が多数存在している。また韓国軍兵士によるレイプによって多数の混血児(ライタイハン)が生まれ、問題になっている。

民族浄化の手段としても、しばしば強姦は用いられる。1990年のクウェート侵攻イラク軍はクウェート女性を襲い、1994年にルワンダフツ族軍がツチ族女性を襲うなどの事例も発生している。1991年から1995年のボスニア紛争では、セルビア民兵ムスリム人女性を強姦していた。ボスニア紛争では、捕らえた女性たちを収容所に入れて組織的に強姦しており、妊娠後、中絶が不可能となるまで解放しなかったという。イスラム国では組織的に少数民族の女性に対して、性暴力を行っていることが知られる。

脚注[編集]

  1. イーリアス土井晩翠青空文庫
  2. とはずがたり』。
  3. 3.0 3.1 かつて甲府地域にあった奇習「旅娘輪姦」とは?
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 永井義男『江戸の性の不祥事』学研プラス、2009年。
  5. 『会津落城 戊辰戦争最大の悲劇』中央公論新社、2003年。
  6. 中村彰彦『幕末会津の女たち、男たち』文藝春秋、2012年。
  7. 水木しげる『水木しげるの不思議旅行』サンケイ出版,1978年,p154-156。
  8. 『歴史を彩った性豪セックス列伝』
  9. 古代インドにおいて、仏教の伝説では龍樹が透明人間となって、宮殿の美女をつぎつぎとレイプしたとされる。

関連資料[編集]

  • 『強姦の歴史』ジョルジュ・ヴィガレロ
  • 『レイプ 踏みにじられた意思』スーザン・ブラウンミラー
  • 「 略奪と陵辱 : 性・所有・共同体 I 」足立信彦

関連項目[編集]

外部リンク[編集]