邢秉懿
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邢秉懿(けいひょうい、1106年 - 1139年)は、中国北宋の女性。康王趙構(のちの高宗)の正室だった。後に女真族の慰み者となったまま、形式上の南宋の皇后とされた。
生涯[編集]
康王の妻として[編集]
首都・開封生まれ。正五品儀曹・邢煥の娘だった。おそらく10代のころに、皇族の康王趙構の妻となる。
その後、1127年、靖康の変が起き、金によって首都が占領されると、康王は逃げ延びたものの、邢秉懿は女真族の捕虜となった。このとき、彼女は21歳だった。北方へ連行される際に、彼女は落馬して流産している。
その直後、連行中の宿営地において、邢秉懿は強姦された。自殺しようとしたものの、結局、彼女はそのまま金へと連れ去られた。
曹勛という者が南宋へと逃亡した際に、彼女は耳輪の片方を託して、「わたしのことをお忘れになりませんよう」と康王への伝言を頼んだ。
洗衣院へ[編集]
同年6月7日、康王の他の側室の姜酔媚、田春羅、高宗の幼い娘(趙仏佑、趙神佑など)とともに、邢秉懿は洗衣院に下された。娼婦とされた彼女は、24歳のとき、誰の子かわからない男子を孕まされ、出産した。
1135年、29歳の時に洗衣院から解放されるまで彼女は凌辱を受け続けた。1139年、邢秉懿は死去した。南宋で皇帝として即位していた康王(高宗)は、彼女に「懿節皇后」と諡し、後にこれは「憲節皇后」と改められた。