慶華公主

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慶華公主(けいかこうしゅ、1318年頃? - 1344年)は、高麗忠粛王の妃。本名は伯顔忽都(バヤンクトウグ)。モンゴル人で、の皇族女性。

生涯[編集]

元の皇族女性[編集]

元の皇族アムガの娘であると推測される。つまり、クビライ・ハーンの玄孫である。生年は不明だが、以下の事情からおそらく1318年頃であると考えられる。

  • 荘穆王后や姉の金童が15歳ないし16歳で降嫁していること
  • 森平雅彦によれば慶華公主の降嫁が1330年頃から1333年頃頃であること

慶華公主は上述の通り15歳頃で忠粛王に降嫁したと考えられる。姉である金童たちも忠粛王の妃だったが、彼女たちはすでに死去していた。このような姉妹との婚姻をソロレート婚と呼ぶ。また、忠粛王は人質として元で暮らしていたため、その頃に公主と何らかの縁があったのかもしれない。

義理の息子に嬲られる[編集]

1339年、夫である忠粛王は亡くなった。まだ20歳ほどの公主は若く美しかったと思われる。やがてそんな公主に悲劇が訪れる。義理の子にあたる新たな王・忠恵王は好色暴虐であり、町中で美女を見かければさらって強姦していた。臣下の妻で美しい者がいると聞けば、その女性を犯した。この忠恵王が、若く美しい義母の公主を放っておくはずがなかった。

ある夜、公主の寝室に一人の男性が乱入した。驚いたことにそれは泥酔した忠恵王とその側近たちであった。驚いた公主は飛び起きて逃げようとしたが、側近たちに口を塞がれてしまう。やがて公主はその手足まで押さえつけられてしまう。公主はついに王に襲われ、衣服を破かれて欲望のはけ口とされた[1]。公主は義理の子に強姦されたうえ、臣下にこれを見られたことで心に深い傷を負った。彼女は帰国を求めたが受け入れられず、そのまま王の慰み者となったという。

26歳で死去。

脚注[編集]

  1. 高麗史』第89卷(列傳2后妃・慶華公主)「慶華公主伯顔忽都蒙古女 王在元娶之後二年與王來五年開府 曰慶華置官屬. 王薨忠惠再宴公主于永安宮公主亦邀忠惠宴及酒罷忠惠佯醉不出暮入公主臥內公主驚起忠惠使宋明理輩扶之使不動且掩其口遂蒸焉..」

参考文献[編集]