蔡文姫

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蔡文姫(さいぶんき、177年 - 249年)は、中国後漢時代の女性。姓名は蔡琰、字は昭姫あるいは文姫。

容姿端麗かつ学問に秀でた才色兼備の美少女であった。17歳のときに異民族の匈奴に拉致され、その性奴隷として二人の子を孕まされた悲劇に見舞われた。

生涯[編集]

儒者の蔡邕の娘。幼い頃から聡明で、かつ美しかった。十代で結婚後まもなく夫を亡くし、実家に戻るも、董卓の乱が起きる。 混乱の中、蔡文姫は遊牧民の匈奴の騎兵の戦利品とされ、その後、南匈奴の左賢王あるいはその部下たちの所有物とされてしまう。拉致され奴隷とされた女性がどのような運命にあうかは自明であり、蔡文姫は強姦にされて膣内射精を受け、妊娠する。

言葉の通じない相手の性処理の対象とされたまま、蔡文姫は29歳となるまでの12年間にわたって弄ばれ、子を生むことは2度に及んだ。その後、父と親しかった曹操が金銭を払って蔡文姫の身柄を解放し、蔡文姫は別の男に嫁ぐこととなった。

蔡文姫の境遇[編集]

蔡文姫が匈奴に拉致された後の境遇について、左賢王と結婚し、その妃となり、貴人として厚遇されたとされることもある。しかし、残された史料の後漢書列女伝によれば、「文姬為胡騎所獲,沒於南匈奴左賢王」(文姫は異民族の騎兵に捕獲され、南匈奴の左賢王のものとされた)とあるとおり、妾あるいは奴隷のような扱いであったと考えられる。中国語版Wikipediaでは「女奴」であったとしている。このことは蔡文姫の身柄を買い戻すために、曹操が「以金璧贖之」(金を支払った)ことからも裏付けられるだろう。

また、『藝文類聚』巻四十四楽四琴の引く『蔡琰別伝』で漢末 大いに亂れ、胡騎の獲ふる所と爲り、左賢王の部伍の中に在り」とあり、蔡文姫は左賢王のような身分の高い者の妾となったわけではなく、左賢王の部隊の名もない男性に犯されたとするものもある。この記載のかぎり、蔡文姫が複数の兵士の性奴隷のような扱いを受け、輪姦されて妊娠した可能性すらあるだろう。

唐の劉知幾は『史通』巻八人物篇において、蔡琰を列女伝に載る価値のない人物であるとして批判した。「董祀の妻たる蔡氏、 胡子を載誕し、辱めを虜庭に受く」、すなわち、自ら命を絶つことなく、異民族に凌辱されるのを受け入れ、子を孕んだことにより、貞節を汚したとするのである。

関連項目[編集]

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