趙匡胤

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北宋の初代皇帝・趙匡胤(太祖)

趙 匡胤(ちょう きょういん、天成2年2月16日927年3月21日) - 開宝9年10月20日976年11月14日))は、北宋の初代皇帝(在位:960年2月4日 - 976年11月14日)。廟号太祖(たいそ)。

趙家は五代十国時代の動乱の中で歴代王朝に仕える軍人の家柄であり、趙匡胤もその縁で後周に仕える。後周の第2代皇帝世宗に仕えて数々の手柄を立ててその片腕となる。世宗が早世すると後周随一の実力者となり、それを背景にして後周から禅譲を受けて宋(北宋)を興す。以後は節度使から権力を奪って皇帝の中央集権化を成し遂げ、さらに華南に割拠する十国のほとんどを滅ぼして北宋の基礎を築き上げた名君となる。しかし統一直前に謎の急死を遂げた。

生涯[編集]

出生と幼少期[編集]

父は後唐に仕えていた軍人の趙弘胤で次男[1][2]。母は杜氏[1](後の昭憲太后杜氏)。趙匡胤は父の弘胤が後唐の荘宗近衛将校として洛陽に赴任していた際に夾馬営という兵営の中で生まれたという[3]。幼少期の趙匡胤について『宋史』太祖本紀では「長じて容貌雄偉、器度豁如たり。識者、その非常の人なるを知る」とあり、普通の少年とは容姿も器量も大きく違っていたと伝えている。

趙匡胤は勉強が嫌いで、外で友人と遊ぶ事が何よりも好きだったという[4]辛文悦という儒者の家塾に通って四書五経などを習うも余り熱心ではなく、塾が終わると家に急いで帰り、友人らと戦争ごっこを始めるのが常だったという。ただし自ら少年部隊を引率して洛陽の街中を練り歩くなど、この頃から既にリーダーシップを発揮していた[4]

936年に後唐が滅亡して後晋が成立すると、趙家は洛陽から汴梁(開封)に引っ越し、父の弘胤は後晋の近衛将校として仕えるようになる。汴梁に移っても趙匡胤の戦争ごっこ好きは相変わらずで、『宋史』太祖本紀にこんな話が掲載されている。

  • 「趙匡胤はある日、手綱も鞍も無い暴れ馬に跨って鞭をくれようとしたところ、突然馬が走り出し、城門に頭をぶつけてもんどりうって倒れた。傍にいた仲間が驚いて駆け寄ると、趙匡胤は仲間の心配をよそにさっと起き上がって暴れ馬を追いかけ、そのまま馬に飛び乗って走り去った」

このように少年時代の戦争ごっこがやがて騎馬・弓矢などの武術の鍛錬へと変わり、そしてこれこそが後に趙匡胤が出世するための資本になっていくのであった[5]

青年期[編集]

18歳の時、趙匡胤は結婚する。しかし趙家は939年に弟の趙匡義946年に弟の趙光美が生まれ、父親は近衛将校ではあったが出世コースから外れていた余りうだつの上がらない人物で必ずしも生活は楽では無かったとされ、21歳の時に趙匡胤は出世するためには世の中を知る事が必要だと痛感し、諸国漫遊の旅に出た[5]。それから3年間にわたって諸国を旅したが、この際の頃の趙匡胤を記録では「博打に手を出して大勝ちしたが、それを妬んだ地元のならず者らにからまれて全て奪われてしまった」「父の知人を頼って行くも冷たくあしらわれた」と記している[5]。ただ、この時の苦労が後の出世への資本になると同時に、趙匡胤を辛抱強い度量のある人物に育て上げた可能性が指摘されている[4]

諸国漫遊に出て3年目、950年に趙匡胤に幸運が訪れる。襄陽の町はずれの寺に宿泊を申し込んだところ、寺の和尚は趙匡胤を只者ではないと見て路銀を与えた上で、当時は後漢の重臣として鄴都留守をしていた郭威に仕えるように薦めた[6]。趙匡胤はこれを喜び、早速鄴に向かって郭威に仕えるようになる[6]。実は趙匡胤が郭威に仕えたちょうどその頃、郭威は後漢の皇帝・隠帝に圧迫されて一族を殺害される事件に遭い、そのため郭威は隠帝に対して反乱を起こして隠帝を殺害し、自ら皇帝に即位して後周の太祖となった。趙匡胤はこの一連の事変において郭威の擁立に貢献したため、功績を賞されて郭威の近衛軍の将校に任命される[7]

柴栄(世宗)の片腕[編集]

952年、趙匡胤は郭威の命令で副指揮使(副軍司令官)に任命されて滑州への赴任を命じられた[7]。ところが、郭威の甥で養子の柴栄は趙匡胤の才能をかねてから目につけていたのでこれに反対し、郭威に申し出て自らの直属の部下にしてもらい、官職も開封府馬直軍使として首都に留まることになった[7]954年に郭威が崩御して柴栄が世宗として跡を継いで即位すると、趙匡胤はこの頃までに世宗の絶大な信任を得ていたため、世宗の義兄弟である張永徳(郭威の娘婿)と共に近衛軍を預けられる重臣になった[7]

郭威の崩御に乗じて、先に郭威が滅ぼした後漢の生き残りである劉崇が建国した北漢契丹)の援軍を得て後周への侵攻を開始する[7]。趙匡胤は張永徳と共に近衛軍を率いて世宗に従って出陣し、高平の戦いで北漢軍の包囲を受けて苦戦する世宗の本陣を救うため、一隊を率いて自ら敵陣の中に突っ込み、世宗の危機を救うという絶大な武功を立てた[8]。これによりますます世宗の信任を得る事になる。

955年に世宗が第1次南唐遠征を開始すると、趙匡胤は世宗に従って出陣する[8]。この時も趙匡胤は塗山に在陣していた南唐軍を軽騎兵を率いて奇襲をかける事で翻弄し、さらに南唐軍を誘い出して伏兵で壊滅させるという武功を立てた[8]。そして寿州を孤立させるために世宗の命令で滁州の攻略に向かう[8]。しかし南唐軍もここが落ちれば寿州が孤立するため守りは固くしており、さすがの趙匡胤も成す術が無かった[9]。この時に趙匡胤が得たのが後に名参謀として股肱となる趙普であった[9]。趙匡胤は趙普に礼を尽くし、自ら訪ねて滁州攻略の計略を尋ね、趙普は間道から回り込めば落とせると答えたので、その通りにすると滁州を落とす事ができた。趙匡胤はこの武功により天下にその名が広く知られるようになり、さらに趙普という名参謀も手に入れるという僥倖に恵まれたのである[9]

滁州を攻略した後周軍に対して、南唐軍の抵抗はさらに激しさを増した。既に後が無いからであり、六合から20里ほどの地点に固い防御陣地を構えたのを見て、趙匡胤は攻撃にはやる諸将を抑えて南唐軍が先に動くのを待つ持久戦に出た[10]。すると南唐軍のほうが先に動いたので、待ち構えていた後周軍は散々に南唐軍を打ち破った[10]。この一連の武功により、趙匡胤は定国節度使、殿前指揮使(近衛軍司令官)に任命されて[10]、名実共に世宗の片腕になった。

957年春の第2次南唐遠征、冬の第3次南唐遠征においても趙匡胤は世宗に従って参戦する。そして目覚ましい働きを見せた[10]

959年、世宗は後晋時代に遼に割譲していた燕雲十六州の奪回を目指して北伐軍を興す[11]。趙匡胤も世宗に従って参戦し、この時も数々の武功を立てて北伐軍は遼軍に連戦連勝した[11]。ところがこの北伐の最中に世宗が陣中で病に倒れたので、北伐は中止となり首都の汴梁へ帰還したが、世宗はそのまま病により崩御してしまった[11]

陳橋の変[編集]

世宗の崩御により、その息子の柴宗訓が恭帝として即位するが、まだ7歳の少年であり、世宗は崩御直前に趙匡胤を召して恭帝の後見人として殿前都点検に起用し、軍事の大権を任せた[11]。これにより趙匡胤は恭帝の後見人、そして事実上は皇帝すら凌ぐ後周随一の実力者になった[11]

960年、遼軍が世宗の崩御を見て後周に侵攻したため、趙匡胤は軍を率いて迎え撃つために汴梁を出陣する[11]。ところが都から40里ほど離れた陳橋において宿泊していた際、事件が起こった。この日も酒好きの趙匡胤は会議を終えると酔い潰れてだらしなく寝ていたとされ、その時に参謀の趙普と弟の趙匡義が武器を帯びた将兵を連れてやって来て叩き起こした[11]。趙匡胤は最初は謀反かと驚いたが、趙普は「諸将と相談した上で、貴方に皇帝に即位してもらう」と告げると、趙匡胤に無理やり黄抱と呼ばれる皇帝の衣服を着させ、将兵に一斉に万歳を叫ばせた、という[12]。こうなると趙匡胤は趙普に従うしかなく、その際に部下に対して皇帝になる代わりに3つの条件を出した。

  • 皇太后や恭帝に対して手を出さないこと。
  • 重臣はこれまで同僚だったから、手を出さないこと。
  • 府庫は国家の宝であるから、略奪しないこと[12]

この3条件の下、趙匡胤は軍勢を引き連れて汴梁に戻った[12]。都に滞在していた重臣らには抵抗する術が無く、恭帝も趙匡胤に禅譲する事を認めた[12]。こうして趙匡胤は皇帝に即位し、宋州の節度使であった事から国号をとした[13]

なお、この陳橋の変は趙匡胤・趙普・趙匡義の3人による芝居だったのではないかとする見解もある。当時の五代十国時代は下剋上が横行する実力主義の時代で、歴代王朝で幼帝が即位すると常に将来への不安がつきまとってしまう[13]。世宗が存命ならともかく、力量どころか年齢も年端をいかぬ恭帝では将来への不安どころか国の存続すら危ぶまれ[13]、そのために趙普らが手を打ったのではないかとされている。趙匡胤はその後、大恩ある世宗の子孫を手厚く遇し、柴氏は宋王朝の下で長く存続する事になった。

北宋の皇帝として[編集]

即位直後、趙匡胤に対して節度使の李匀李重進が反乱を起こしたため、これを鎮圧する[13]

趙匡胤は五代十国の戦乱は節度使が地方で軍事力を蓄えて強大化したから続いたものと判断していたため、趙普と図って節度使から軍権を奪う必要があると考えて実行に移す。それまで自分を支えてきた近衛軍の将校らを名目上、それぞれ実権の無い節度使に任命し、その代わり莫大な金を支給して将来的に富貴ある生活を約束する、いわゆる年金生活者にした。その上で近衛軍は皇帝に直属するようにして、皇帝権力を強化した。この話は「杯酒釈兵権」(はいしゅしゃくへいけん、趙匡胤は近衛軍将校を宴会に招待して年金生活を約束する節度使に任命したため、こう言われている)と言われている[14]

次はそれまでの節度使を中央に招聘してそれぞれ官職に就け、後任には文官を派遣した。つまり、名目上の節度使と実権を持つ太守が混在する事になるが、趙匡胤は実権を持つ太守は一定の在任期間をもって他所に転出するようにしたので、かつての節度使のようにその地に勢力を張る事が極めて困難になった。さらに各州には長官とそれを監視する副長官が設置されたので、それまで勢力を持っていた節度使や豪族も次第に解体を余儀なくされていった。これは「強幹弱枝」と呼ばれる[14]。趙匡胤から100年後の北宋の政治家で史家でもあった司馬光は『涑水紀聞』で「諸鎮(節度使)皆自ら兵力の精鋭は京師の敵に非ざることを知り、あえて異心を有する者なし。我が太祖(趙匡胤)よく強幹弱枝し、治を未乱に制せしに由るが故なり」と評している。

こうして宋の地盤を固めて中央集権化を成し遂げた趙匡胤は、次に分裂した中国を統一するための外征に乗り出す。当時、諸国の王はいずれも建国の世代を過ぎてその子孫の代になっていたが、各国の王いずれにおいても趙匡胤には遠く及ばない暗愚な王ばかりだった。そのため、963年荊南を滅ぼしたのを皮切りにして、965年後蜀971年南漢975年に南唐と次々と滅ぼして併合していった。この際の趙匡胤の対応は、強大な軍事力で諸国を滅ぼしはしたが、そのやり方は苛烈ではなくむしろ温和で滅ぼした各地の王は普通なら処刑されても文句は言えないはずだが、いずれも首都に留め置く事を条件にして手厚く厚遇した[15]

また、趙匡胤は大の読書好きで、文化事業にも熱心に務めた。こうして宋が北宋、そして靖康の変を経て南宋に滅ぼされるまで300年に至る基礎を築き上げた趙匡胤であったが、中国統一はならなかった。なぜなら976年10月、都の汴梁において急死したからである[16]享年50。

この急死には弟の趙匡義による暗殺とする説も根強い(千載不決の議)。実際、趙匡胤には息子に趙徳芳がいたにも関わらず、趙匡胤の死後は実弟の趙匡義が跡を継ぐという異常事態になっており、しかも趙徳芳は父帝の死からわずか7年後に23歳の若さで死去しているためである。なお、北宋の皇統は以後趙匡義こと太宗の子孫で占められ、趙匡胤(太祖)の子孫は皇統の埒外に置かれた。趙匡胤の子孫が皇統を継承するようになるのは靖康の変で北宋が滅亡し、その中で生き残った高宗の息子である趙旉が早世して太宗の血統が断絶すると、南宋の第2代皇帝には趙徳芳の子孫である孝宗が即位する事になり、以後、南宋滅亡まで趙匡胤の子孫が皇統を継承する事になった(ただし孝宗の血統も3代で断絶し、以後は別の趙匡胤の子孫の血統が継承した)。

ただしいずれも証拠が無いため定かではない。趙匡胤は大の酒好き、酒豪だったため、脳溢血による急死が死因なのではないかとする説もある。

趙匡胤の遺志を継いで統一事業に邁進した趙匡義は979年に北漢を滅ぼし、宋の統一と五代十国の終焉を成し遂げた。

趙匡胤は現在の河南省の永昌陵に埋葬された[17]

人物像[編集]

趙匡胤は温和な対応をして度量が広く、中国の歴代皇帝の中でも十指に入る名君であるが、その事績に比して余り有名な皇帝ではない。何故かと言われればやはり公的・私的を問わず派手さに欠けており、全てにおいて地味なためである。始皇帝のように万里の長城を築いたり焚書坑儒を行なったりなど、とにかくその業績に全く派手さが無いため、趙匡胤の名は不当なくらい著名ではないのが残念な点というほかない[18]

ただし派手さは無いが、趙匡胤には面白い逸話も多いので紹介しておく。

  • 趙匡胤は無類の酒好きで、『宋史』太祖本紀では「玉津園に幸す。侍臣に謂いて曰く「沉面するは令義にあらず。朕、宴して偶ま酔い、恒にこれを悔ゆ」と」記録している。訳すと「(趙匡胤は)酒に溺れて泥酔するのは皇帝らしくないと承知していながらも、つい酒に手を出してはまた後悔する」というのである。つまり根っからの酒好きで、これだけは生涯を通じて収まらなかったようである。
  • ある日、政務を終えて居室に下がったが、何故か欝々として楽しまない様子なので心配して側近が訳を尋ねると、「そちらは皇帝とは気楽な稼業だと思っているかもしれんが、とんでもない。先ほどわしは調子に乗って誤った指示を与えてしまった。それが気になって気持ちがふさいでいるのじゃ」と言ったという。こういう風に気弱な一面があった趙匡胤を支えたのが名宰相となった趙普であり、この主従は単なる主従関係を超えた信頼(趙匡胤が趙普の妻を姉上と呼んだりもしている)で終生結ばれていた[19]
  • 趙匡胤は皇帝になってからも質素を極め、贅沢を慎んだ。いつも洗いざらしの衣服を身に着けて寝殿の簾も青い布で縁取りするほどで、余りに質素すぎるために弟の趙匡義がもう少し皇帝らしい服装をされては如何か、と勧めたところ、お前は兵営で育ったあの頃を忘れたのか、と激怒したという。また、娘の永慶公主が派手な刺繍をした川蝉の羽根をちりばめた上着を着て現れたところ、その上着を取り上げた。公主がこれくらいよいではないか、と抗議すると、公主のお前がこんな派手な物を身に着けたら、皆が見習うと言って遂に許さなかった。961年七夕においてもその質素な対応は変わらず(中国で七夕は女性の祭日であり、女性にお祝いとしてプレゼントを贈るものとされている)、この時に母と妻にそれぞれ贈り物をしたが、母には銭3貫、妻には1500文という微々たる金額であったという。このように質素な生活に徹した趙匡胤であるが、決してケチではなく、功臣や近衛軍の将校、降伏した諸国の王やその子孫に対しては惜しげもなく金を使っており、自らの私生活には質素を貫いた中国でも珍しい皇帝と言える一人であった[20]
  • 趙匡胤は大変な読書好きであった。いつも書籍を離さず、珍しい書籍があると惜しげも無く大金を支払って購入したという。また、世宗に従って南唐遠征に赴き、寿州を陥落させた際に趙匡胤の功績を妬む者が世宗に趙匡胤が財宝を一人占めして車に一杯詰め込んでいる、と讒言した。世宗は趙匡胤がそんな人物ではないと理解していたため自ら調べてみると、車に積まれていたのは全て書籍であった。世宗がこんなに大量の書籍を集めてどうするのか、と尋ねると趙匡胤は、陛下に仕えながら特別の智謀も無く、日夜職責も果たせないのではないかと恐れており、書籍に親しんで見聞を広め、少しでも利口になりたいと思っているのです、と答えたという。皇帝になってからも読書好きは変わらず、常に史館に赴いて史書を読み、そして重臣らと歴史について討論し、歴史に学んだという[21]
  • 趙匡胤は暴れん坊将軍徳川吉宗のように(これはフィクションであるが)、一人で外出するのが好きだった。側近が何かあったらどうするのかと諫めても聞かなかった。このため、重臣らは趙匡胤がいつ、自宅を訪ねるかわからないので朝廷から帰宅してからも衣冠を取らずに不時の来訪に備えるのが常だったという[22]
  • 王宮の庭園で弓を手にして雀撃ちに興じていた際、家臣が火急に決裁を求める書類を持ってやって来たので、趙匡胤は書類に目を通すと急ぐ必要のない事項の書類だったため、楽しみを邪魔された趙匡胤は激怒して斧の柄で家臣の顔を打ち据え、その家臣の歯が2本も欠けて床に落ちた。その家臣は落ちた歯を拾うと、この事実は史官によってはっきりと記録に留められるでしょう、と述べた。中国の皇帝には記録を司る史官が皇帝の行状を細大漏らさず記録するのが常であり、趙匡胤はそれを聞いて自らが後世に暴君と伝えられるのではないかと慌ててその家臣に莫大な傷害補償金を与えたという[23]
  • 狩りが好きだった趙匡胤は晩年にも馬を駆って狩りに出かけていたが、その時に馬が窪地に足を取られて趙匡胤は地面に投げ出されてしまった。激怒した趙匡胤は佩刀を引き抜いて乗馬を刺殺したが、すぐに自らの行ないを後悔して「我天下の主となりて軽々しく佃猟を事とす。またなんぞ馬を罪せんや」(『宋史』太祖本紀)と言って2度と狩りに出かけなかったという。
  • 怒りっぽく短気で癇癪を爆発させる趙匡胤であったが、家臣の意見に広く耳を傾ける度量があり、その度量は「虚心納諫」(『続資治通鑑』)と称されて評価されている。
  • 趙匡胤は宮殿の安全な場所に石に刻ませた銘文を置き、後継者らに皇位を継ぐにあたってこの刻石の前に膝まづいて銘文を読むように命じたが、それは3か条の訓戒で、内容は「後周の皇室である柴一族ならびにその子孫を保護すること、官吏と学者を処刑してはならない、農地の税を上げてはならない、そして宋王朝が続く限り、役人は武器を持って戦ってはならない」というものだったという(王夫之、『宋論』)。

家族[編集]

妻妾[編集]

男子[編集]

  1. 越王趙徳昭
  2. 秦王趙徳芳

女子[編集]

  1. 永慶公主

脚注[編集]

  1. a b 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P301
  2. 『中国皇帝歴代誌』創文社、2000年、P147
  3. 『宋史』太祖本紀では「宋の太祖は介冑の中より起こる」と紹介している。
  4. a b c 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P302
  5. a b c 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P303
  6. a b 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P304
  7. a b c d e 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P305
  8. a b c d 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P306
  9. a b c 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P307
  10. a b c d 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P308
  11. a b c d e f g 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P309
  12. a b c d 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P310
  13. a b c d 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P311
  14. a b 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P311 - P314
  15. 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P315 - P319
  16. 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P324
  17. 『中国皇帝歴代誌』創文社、2000年、P146
  18. 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P296 - P297
  19. 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P321
  20. 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P321 - P323
  21. 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P323 - P324
  22. 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P315
  23. 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P298 - P300

趙匡胤を主人公にした文芸作品[編集]

  • 小前亮著『飛竜伝:宋の太祖 趙匡胤』(講談社2006年) ISBN 4-06-213785-2 後、「宋の太祖 趙匡胤」と改題した。『飛龍全伝』の翻案小説。

参考文献[編集]