庾文君

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庾 文君(ゆ ぶんくん、297年 - 328年)は、中国東晋の左将軍、庾琛の娘。明帝皇后となったが、蘇峻の反乱が起こると、敵兵たちに犯されて亡くなった。

生涯[編集]

庾氏は東晋の一大勢力であり、兄の庾亮は中書令として東晋を支えた。庾文君はそうしたなか何不自由なく育ったと考えられ、また、容姿端麗だった。性格も思いやりのある優しい性格だった。

2歳年下の皇太子司馬紹(明帝)に嫁ぎ、皇太子妃となった。321年、24歳の文君は司馬衍(のちの成帝)を産んだ。

明帝が即位したため、その皇后となった。明帝は東晋屈指の名君であり、王敦の乱を鎮圧したが、若くして亡くなってしまう。28歳の文君は未亡人となった。成帝は幼かったため、群臣は、皇太后である文君に垂簾聴政するように求め、文君の兄の庾亮がそれを支えた。群臣は文君の両親に尊称を追贈することを幾度と無く奏上したが、文君は慎み深くそれを断った。

その後、数年間は何事もなく過ぎたが、328年に悲劇が起こる。庾亮の政策に反対した軍閥の長、蘇峻が反乱を起こしたのである。反乱はまたたくまにひろまり、官軍は惨敗して、2月に首都は陥落した。蘇峻の兵は凄惨な略奪を行い、身分の高い女性たちは裸とされ、草木で身を隠す有様だったという。皇宮も例外ではなかった。後宮に突入した賊兵たちは、宮女たちを犯し、性奴隷とした[1]。賊兵の手は文君にもおよんだ。31歳の美貌の皇太后は雑兵たちに輪姦された[2]。その後、一ヶ月ほど雑兵たちの慰み者となっていたと思われるが、絶望のあまり文君は世を去った[3]

脚注[編集]

  1. 『晋書』帝紀第七「突入太后後宮、左右侍人皆見掠奪」
  2. 『晋書』后妃下「及蘇峻作逆、京都傾覆、后見逼辱」
  3. 『晋書』帝紀第七「三月丙子、皇太后庾氏崩」、『晋書』后妃下「遂以憂崩、時年三十二」