文宣帝

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文宣帝(ぶんせんてい、孝昌2年(526年) - 天保10年10月10日559年11月25日))は、南北朝時代北斉の初代皇帝(在位:550年 - 559年)。姓は(こう)、(よう)。中国史上の皇帝の中でも「殺人鬼」「サイコパス」として知られている。

生涯[編集]

即位と治世[編集]

東魏の権臣・高歓の次男。母は正妻の婁昭君北魏孝武帝皇后高氏高澄、東魏の孝静帝皇后高氏(太原長公主)、高演(孝昭帝)、高湛(武成帝)の同母兄弟にあたる。容貌は醜く、内気で無口であった。幼い頃は才覚が人に気づかれず、見た目は茫洋としていて兄弟や周りから笑われていたが、父親の高歓は真価を見抜いていた。

兄の高澄が部下の蘭京によって殺害されると、後を継いだ高洋は蘭京を誅殺して兄の仇を討った。以後、着実にその後継者としての地位を固め、孝静帝(高洋から見て義弟)により丞相とされ斉王に封じられた。しかし高洋は、父が立てた傀儡皇帝でしかなかった孝静帝の臣下としての地位に満足せず、武定8年(550年)、25歳の時に孝静帝に禅譲を迫って帝位に即位し、北斉を建国する。

文宣帝は産業を奨励するなど富国強兵を図る英邁な皇帝であった。また人を椅子ごと持ち上げる怪力の持ち主で、戦争は滅法強く、宇文泰西魏(のち北周)が何度も侵攻してきたが、それは全て撃退している。突厥契丹も文宣帝に破られた。こうして王朝の基礎を固めるのに功績があった。

殺人鬼と酒乱と[編集]

しかし文宣帝は恐ろしい殺人鬼でもあった。

黄河流域がの大災害を受けた際、文宣帝は重臣に「なぜ蝗が襲うのか」と質問した。それに対して重臣は「陛下が外は長城をお築きになり、内は三台をお築きになられたからでしょう。蝗は土木事業がその時を得ないで行なわれると襲来すると、本には書かれております」と答えたので、文宣帝は激怒して左右の者にこの重臣を殴打させ、髪を抜かせ、さらに小便をひっかけ、足を引っ張って外へ引きずり出したという。

東魏の孝静帝から禅譲を受けると、文宣帝は孝静帝に対して「なぜは1度没落しながら、再興(後漢)できたと思うか?」と問い質した。すると孝静帝は「王莽劉氏の一族を誅滅しなかったからです」と答えたので「その通りだ」と言って文宣帝は孝静帝をはじめとする東魏の皇族の元氏を虐殺した。この虐殺の際、元氏の一族はことごとく市で斬殺されたが、その中で嬰児であった場合はただ殺すのではなく、嬰児を空中に投げ捨て、それが落ちて来るのを槍で突き刺して殺したりしたという。虐殺された元氏の数は721名にのぼり、その死体は全て漳水に投げ捨てたが、その後に漳水から取れた魚の腹を裂くと人間が出て来たので、北斉の国民は驚いてしばらく魚が食べられなくなったという。またこの際、筵を翼のように付けさせて金鳳台から首尾よく飛べた者は助けてやるという命令も出した。温情ではなく、飛べるわけも無いのに飛ばさせて見せしめで殺そうというものだったが、偶然にも元氏の中でひとりだけうまく飛べた者がいたので助命せざるを得なくなり、後にこの人物は餓死させている。また、虐殺を免れたいと考えた元景安は文宣帝と同じ高の姓を名乗れば許してくれるかもしれないと思い、文宣帝に高への姓の変更を嘆願した。これを聞いた従兄の元景皓が「自分の宗族(姓)を捨てて、人の姓に従うとは何事か。大丈夫はむしろ玉砕すべきも、瓦となって命を全うできようか!」と怒った。しかし元景安は助かりたかったので、文宣帝にこれを密告し、文宣帝は激怒して元景皓を殺し、元景安には高景安と改姓することを許して助けたという。これが「玉砕」と「瓦全」の起源であると言われている。

文宣帝は大変な酒乱だった。ただの酒乱ではなく、酔うと血を見ずにはいられないという物騒な酒乱で、庭に鍋や長い鋸、鉄槌などを並べて色々な殺し方をしたという。時には重臣が殺されるのだからたまったものではなく、重臣は文宣帝の殺人用として死刑囚をその傍に置くことにした。そして3か月の間にその死刑囚が文宣帝に殺されなければ、異数の幸運児であるとして死刑執行が停止されて釈放されたという。

その酒乱の酷さに母親の婁太后が文宣帝を杖で打ち据えたことがある。ところが文宣帝はこのときに酔っぱらっていたため「何だこの婆さん、よそへ嫁に出しちゃうぞ」と言ってからかい、激怒した母親を持ち上げて投げ捨てて怪我をさせたという。後に酔いから醒めてこのことを聞かされた文宣帝はさすがに自らの親不孝を恥じて、叔父の高帰彦に対して自分の罪を数えてその杖で打つように、さらに杖で打って血が出なければお前を斬ると脅迫した上で打たせたという。それを知った母親は文宣帝の罪を軽減し、足を鞭で50回打つまで値切ったという。なおこの際、文宣帝は禁酒を宣言したが、それは10日ほどしか続かなかった。

重臣の崔暹が死去した際、文宣帝はその屋敷に赴いて未亡人の李氏と会った。そして李氏に「崔暹のことをそれだけ思っているのか?」と尋ね、未亡人が「はい。一刻も想わぬ時はございません」と答えると「ではあの世とやらに行って会って参れ」と言って未亡人を斬り捨てたという。

酒に酔っている時、戯れに槍で将校を切り捨てた。その惨状に弟の高演が驚いて諌めたが、文宣帝は「お前がいると、朕は酒を飲んではいかんのか!」と激怒して杖で高演を打ち据えた。高演は死にかけたが、文宣帝がそれを見ながら酔いつぶれて寝てしまったので刑の執行は停止されて命拾いし、後にこのことを知ると泣いて後悔し「今後、俺に酒を勧める奴は斬り捨てる!」と怒鳴りながら盃をぶち壊した。

文宣帝の即位に功績のあった宰相高徳政はさすがに酒乱の酷い文宣帝によく諫言した。そのうち、文宣帝と不仲になったため、高徳政は殺されることを恐れて病気を理由に辞職を願い出たが許されず、ならば冀州刺史になりたい旨を嘆願し、文宣帝の傍から離れようとした。文宣帝はそれを認めて冀州の刺史に任命したが、赴任の挨拶に来た高徳政に「お前、病気だそうだが、朕がひとつ鍼の治療をしてやろう」と言うと、小刀で自ら高徳政を突き刺した。苦しむ高徳政に対し、文宣帝は傍にいたお抱えの殺し屋である劉桃枝に彼の足を斬るように命じたが、さすがに劉もその惨状を見てためらった。すると文宣帝は「ならば、お前の頭を斬り落とそう」と言い出したので、劉はやむなく高徳政の指を3本斬り落として、その場を誤魔化したという。

最期[編集]

文宣帝は前述のように酒乱で酒を飲み続けて体調を崩した。あるとき、文宣帝は占い師を呼び寄せて自分の在位がどれくらいになるかを占わせた。占い師は文宣帝の怒りを買うことを恐れて「30年という数字が出ました」と答えた。ところが文宣帝は「そんなに長いわけがなかろう」と笑いながら「10年くらいかな?」と見抜き占い師は平伏したまま答えられなかったという。

559年に文宣帝は重病の床に伏した。記録によると「酒を嗜み疾と成り、復た食する能わず」とあるため、恐らくアルコール中毒かアルコールによる何らかの病気であったと思われる。

この時、文宣帝は34歳であるが、そもそも早婚であったため既に15歳になる高殷という皇太子がいた。しかし国を治めるにはまだ少し若いため、将来が不安であった。文宣帝は皇后に対して「人は生まれれば必ず死ぬ。生は惜しむに足りないが、皇太子はまだ幼くて皇位を人に奪われるのが可哀想だ」と言い、そして弟の高演に後見を託し、臨終の際にその高演に「お前が簒奪するのは仕方ないが、殷は殺さないでくれ」と頼んだという。そして559年の10月10日に崩御した。34歳没。

遺命により皇位は息子の高殷が継承したが、すぐに高演に廃されて、しかも後に殺されている。

人物像[編集]

文宣帝は残虐な人物だったため、その葬儀の際には群臣の内で泣く者はたった一人だけだったという。

張翼の『二十二史箚記』では「石虎苻生明帝、文宣帝、海陵王朱元璋らもかなり殺を好む無道の君」と評している。

宗室[編集]

后妃[編集]

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兄弟[編集]