藤原東子

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藤原 東子(ふじわら の ひがしこ/はるこ、天平12年(740年)? - 天平宝字8年(764年)?)は、奈良時代貴族女性藤原仲麻呂の娘であり、父が敗死すると敵兵に輪姦されたと伝えられている。

生涯[編集]

絶世の美女として[編集]

姉に児従、妹に額がいる。天平宝字5年(761年)1月2日に妹の額とともに無位から従五位上となった[1]。律令の規定によれば、蔭位による従五位下以上の叙位は21歳以上の人物に対して行われることから、東子もこのとき21歳であったと考えられる。

東子は容姿端麗で、世間にで最も美しいとすら言われていた[2]。当時、父の仲麻呂は権勢を極めており、容姿にも周囲にも恵まれた東子は、幸せな生活を送っていたと思われる。

その頃、当時はまだ完全には失明していなかった鑑真和尚は、東子の兄弟である藤原刷雄と親交があり、東子と会ったこともあった。鑑真は東子の人相を見て、予言した。「このお方は千人の男と結婚なさる人相をしている」と。

戦火に蹂躙される[編集]

それから数年が経った。孝謙上皇道鏡と対立するようになった仲麻呂はしだいに追いつめられていく。天平宝字8年(764年)9月11日、孝謙上皇に先手を打たれた仲麻呂は、謀反人として追討され、近江国へ逃れた。24歳の東子もおそらくこの逃避行に加わった。9月18日、再起にも失敗した仲麻呂は東子たち数人を連れて、琵琶湖上に船を出そうとした。が、その前に仲麻呂はあえなく捕らえられ斬首された。仲麻呂の一族や塩焼王らも虐殺された。

このとき、東子は少なくともすぐには殺害されなかった。仲麻呂が殺害された直後、彼女は捕虜となった。そして、上皇方の兵士1000人[3]すべてが東子に襲いかかり、彼女を蹂躙した。鑑真の予言は思わぬ形で当たることとなったのだ。若く美しい東子は敵兵に次々と強姦された[4]

この東子の悲惨な運命については『水鏡』にしか記載がないが、これは『水鏡』の典拠となっている『扶桑略記』の当該期部分が散逸しているためだと考えられる。この後に東子が生存していたことを示す史料も、処刑されたことを示す史料も存在していない。1日のあいだに1000人の男すべてに犯されることは不可能であるから、東子はその後も生かされて慰み者となっていたのかもしれない。いずれにせよ、藤原東子は24歳の若さで歴史の闇の中へと消えることとなった。

脚注[編集]

  1. 続日本紀』天平宝字五年正月戊子条「無位藤原恵美朝臣東子従五位上。無位藤原恵美朝臣額。橘宿禰真都我並従五位下。」
  2. 水鏡』では単に仲麻呂の娘とされているが、後述する経緯から仲麻呂の乱で赦免されている児従や額ではないため、東子であると考えられる。
  3. この『水鏡』の示す兵数は、当時の状況に一致する。木本好信『藤原仲麻呂』(ミネルヴァ書房、2011年)によれば、上皇方の兵士は1000人程度だったとされる。
  4. 『水鏡』「 父の大臣討ち取られし日、御方の軍千人悉くに、この人を犯してき。 」

関連項目[編集]