徽宗

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徽宗(きそう、フゥイゾン、1082年 - 1135年)は、北宋の第8代皇帝姓諱趙佶(ヂャオジー)。第6代皇帝・神宗の子。北宋最高の芸術家であるとともに、北宋最悪の暗君である。

生涯[編集]

神宗の11男で、本来なら皇位が回ってくる可能性は大変低かった。ところが1185年の父帝の崩御により即位した兄の哲宗が、1100年に24歳の若さで崩御する。哲宗には男子が無く、この際存命していた趙佶の兄は片目が見えないという障害者であったことから、神宗の皇后であった向氏(皇太后)によって次期皇帝に選ばれ、即位して徽宗となる。

11世紀末から12世紀初頭は、北宋が経済的にきわめて栄えた時期であり、文化も爛熟していた。そのなかで即位した徽宗は類まれな芸術的才能を発揮し、痩金体という書を創始し、院体画という絵画のスタイルを確立した。また、『政和五礼新儀』という政治思想書の編纂も行った。

しかし、徽宗は為政者としての資質については欠けていた。自身の芸術のために重税を課し、庭園をつくるための材料を各地から徴発した(花石綱)。徽宗は桁外れた猟色家で、その後宮には数百人もの美しい女性たちが集められた。こうした悪政のため、各地で反乱が起こったが、北宋の基盤は盤石だったため、とりあえずは大きな問題は起きなかった。

ところが、北宋は異民族王朝の遼と倒そうと計画し、さらに北方の満州族の金と同盟を結んだ。その結果、遼は滅んだものの、金は余勢を駆って、北宋の首都・開封に迫った。徽宗は息子の欽宗に譲位した。また、莫大な財宝を捧げ、可憐な容姿で知られていた皇女・茂徳帝姫を性奴隷として差し出すことで講和を願った。しかし、1126年、開封の外城は陥落。1127年2月には内城も明け渡され、徽宗は金の捕虜となることとなり、金の本拠地へと連れ去られた(靖康の変)。

この過程で徽宗の後宮にいた容姿端麗な女性たちは、みな満州族の慰み者となることとなった。徽宗の皇女や孫娘たちも例外なく強姦された。皇女・柔福帝姫は金の兵士に犯されて、妊娠・流産するものもいた。こうして、民間の女性たちも含めて、10000人とも言われる美女・美少女たちは金へと連行された。数ヶ月後、軟禁されていた徽宗のもとに、妃だった閻宝瑟新王婕妤、周春桃、狄金奴、邵元奴の五人の女性が送り返されたが、彼女たちは満州族の兵士に輪姦されて妊娠していた。他の女性たちは金の武将・兵士の妾とされたものもいれば、洗衣院という娼館に入れられ売春を強要されたものもいた。

徽宗は南宋に帰還することもかなわず、屈辱のうちに死去することとなった。

妃嬪[編集]

ほか数百名以上。

皇子[編集]

ほか多数

皇女[編集]

ほか、夭折した皇女が多数いる。

脚注[編集]

関連項目[編集]