羊献容

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羊 献容(よう けんよう、286年 - 322年)は、西晋の高官の娘。祖父は尚書右僕射羊瑾羊祜景献皇后の従兄弟)、父は尚書右僕射(宰相的な役職)の羊玄之西晋の第2代皇帝恵帝皇后となったが、永嘉の乱が起きると異民族の匈奴が建国した前趙(当時は漢)に捕らわれて強姦された。その後、前趙の第5代皇帝となった劉曜の皇后となる。諡号献文皇后

生涯[編集]

暗君とされる恵帝の最初の皇后・賈南風は権勢をほしいままにしたが、300年に趙王・司馬倫に粛清された。その後、14歳の羊献容が選ばれて、300年に皇后となった。301年司馬倫の謀反が起きると、恵帝は廃位され幽閉されてしまい、羊献容も皇后を廃位された。しかし、司馬倫はすぐに敗死し、恵帝は復位する。羊献容も皇后に戻ったものの、混乱の中、羊献容の母の孫氏の一族は殺されてしまう。

303年8月、父の羊玄之に謀反の疑いがかけられ、直後に彼は病死した。304年2月、羊献容はその影響で再び皇后の地位を追われ、幽閉された。しかし、皇后廃位を主導した皇太弟の司馬穎が討伐の対象となると、羊献容はまた皇后に戻る。さらに司馬穎と将軍の張方の権力争いが起きると、羊献容はそれに巻き込まれ皇后を数度にわたって廃位され、処刑されそうにもなったが、そのたびに皇后に戻った。

306年10月、羊献容を幾度となく苦しめた司馬穎は東海王・司馬越により失脚し、処刑された。同年の11月に夫の恵帝が死去した。羊献容はまだ20歳と若かったが未亡人となった。羊献容は自身の意に沿う皇帝を即位させようと試みたが、西晋の第3代皇帝には恵帝の異母弟である懐帝が司馬越に擁立されたために失敗する。とはいえ、その後も皇族として厚遇された。

311年6月、八王の乱から始まる度重なる内乱で国力の衰えた西晋に異民族の匈奴が建国した前趙の皇帝・劉聡が一族の劉曜、石勒らを大将にして、大挙して攻め寄せ、洛陽で略奪を行った(永嘉の乱)。そのさなか、敵兵たちが後宮に乱入し、皇后、梁蘭璧たち女性を凌辱した[1]。25歳の羊献容もまた、その肢体を敵兵たちに蹂躙されることとなった[2]。この際、義理の娘である臨海公主も強姦され、奴隷とされた。

輪姦されて絶望した羊献容は死を臨んだが[3]匈奴の拠点である平陽に連行された。その後、羊献容は匈奴の劉曜の妻とされ、3人の子を妊娠させられた。 322年、羊献容は36歳の若さで亡くなった。

数奇な運命をたどり、皇后に立てられること7回、廃されること6回であったが、これは中国の皇后の中でも例を見ない立后と廃后の回数である。これだけ復することができたのは外戚である孫秀と一族が皆殺しにされて外戚不在で利用しやすいという理由があったためと推測されている。また、劉曜とは意外にも仲が良かったようで、晩年に劉曜が「朕と司馬家の息子(恵帝)と較べるとどうじゃ?」と尋ねると「どうして比べ物になるでしょうか。貴方は開基の聖主。あちらは亡国の暗夫です。あの時、私は生きることを考えていませんでした。でも生きていてよかったと思います。生きていたからこそ、この天下にも本当の丈夫がいることを知ったのですから」と答えたと伝わっている。

子女[編集]

劉曜との間の子が3名おり、劉熙は前趙の皇太子(事実上の第6代皇帝)となった。

脚注[編集]

  1. 『晋書』帝紀第五に曰く「遂焚燒宮廟、逼辱妃后」
  2. 『晋書』后妃伝に曰く「妻子辱于凡庶之手」。
  3. 『晋書』后妃伝に曰く「妻子辱于凡庶之手、遣妾爾時實不思生」