中国における強姦の歴史

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

この記事では中国における強姦の歴史を取り扱う。中華人民共和国およびその周辺を含む。世界史全体については「強姦の歴史」を参照されたい。

春秋戦国 ・漢・三国時代[編集]

春秋戦国時代には、ある国の君主が死ぬと、新たな君主は先代の君主の側室たちを襲ったという。たとえば公女の夷姜は、義理の息子の宣公に襲われて手籠めにされその妾となり、後に自殺している。宣公は息子の婚約者の宣姜が国に現れるや、彼女の美しさに惹かれ、襲って二人の子供を孕ませている。また、夏姫のように妖女とも、異母兄や主君にレイプされた悲劇の女性とも言われるケースもある。

戦時性暴力もあったと思われ、呉王闔閭昭王を破り、楚の首都に侵入すると、昭王の後宮にいた妃たちすべてをレイプし、女性たちは恐怖した。この際、美貌で知られた昭王の母・伯嬴が抵抗し、それを美徳とすることからも、このころには強姦されることを怖れ、恥とする観念が成立していたことがわかる[1]

前漢の始祖・劉邦の母・劉媼は屋敷で昼寝中に盗賊に襲われて劉邦を身ごもったと言われる。劉邦の寵妃・戚夫人は皇太后によって嫉妬され、処刑されたが、その直前に牢屋で凶悪な男性囚人たちに何度も強姦されたともいわれる。

漢文では、レイプのことを「逼辱」と記載する。「後漢賊臣董卓廟議」では董卓軍が洛陽に侵入した際に「逼辱妃嬪」したと記しており、また、後漢書董卓伝でも皇女(万年公主のことか)や宮女を強姦し、陽城からさらってきた女性たちを性奴隷としたという。この董卓の乱の際には、名家に生まれた才色兼備の17歳の美少女・蔡文姫‎が匈奴にさらわれ、その奴隷として強姦され妊娠、十二年間にわたって慰みものとなったという悲劇もあった[2]。呉では政治家張布が殺害された後、その美人の娘姉妹が孫晧によって強引に後宮に収められ犯されている。姉は夫がある身であり、妹は「おまえのような盗賊に父は殺されたわ!」と罵ったせいで後に殺された。

五胡十六国・南北朝[編集]

中国史では北方の遊牧民族と漢民族の衝突が繰り返し起き、前者によって後者の女性たちが性奴隷とされることがしばしばあった。特に五胡十六国時代は戦乱の時代だったため、この種の強姦が頻発している。

西晋の皇后、羊献容梁蘭璧、皇女の武安公主らは北方の遊牧民族に輪姦された挙句、彼らに連れ去られた。東晋の皇后・庾文君も反乱軍に捕らわれて輪姦され、絶望のうちに死んだ。また、の皇女である幼き少女は溧陽公主 ()は父祖を害した侯景の妾とされ弄ばれた。公主は彼の死後、その死体に復讐を果たしている。

また、寿陽公主爾朱世隆に手籠めにされかけて殺された。の皇女であった宣華夫人陳氏は、陳を滅ぼした文帝煬帝の親子2代にわたってその側室とされており、特に後者からは関係を一度拒んだのに無理やり犯されている。また、陳が滅んだ際、後宮の妃嬪たちは兵士によってほしいままに乱暴され犯されたという[3]

一方で、皇帝・君主による性的収奪も大規模に行われた。北魏の皇族女性安徳公主たちは、北斉の文宣帝に公開凌辱されている。その文宣帝の皇后李祖娥は美貌で知られたが、後に即位した武成帝に強姦され、妊娠させられている。南朝宋の前廃帝は皇族の妃(建安王太妃)を臣下に強姦させ、また、尼寺に行くとまだ尼になっていなかった幼く可憐な少女を強姦し、側近たちにも犯させた。

後涼の皇族・呂弘は兄・呂纂に反逆したが敗北した。呂弘の治める東苑の町の女性はすべて呂纂の兵の慰み者となった。そのなかには、呂弘の妻や娘も含まれ、皇族の身でありながら彼女たちは卑しい男たちに輪姦されるところとなったのである。のちに部下の諌めによって、彼女たちは救出された。

唐・五代十国[編集]

唐の太宗は対立した弟を殺すと、その息子たちは殺したうえで、その妻の巣剌王妃楊氏と娘たちは奴隷とした。その後、楊氏が美女だったため、妾として犯し孕ませた。

貴族・賀蘭敏之は、街をお忍びで訪れていたお転婆な皇女の太平公主の侍女(あるいは本人)をレイプし、さらに皇太子の婚約者楊氏という幼い少女をレイプし自殺させている。

を滅ぼした後梁の皇帝朱全忠は好色で、息子たちの若い妻を夜な夜な寝室に呼んで無理やり犯し妾同然にしており、また腹心の張全義の家の若い女性たちをみな慰み者とした。張全義の息子はそのため朱全忠を殺そうとしたが、果たせず、そのまま女性たちは朱全忠にもてあそばれた。

北宋・金[編集]

五代十国時代の乱世を勝ち抜いた北宋は、初代皇帝の趙匡胤後蜀を滅ぼし、その皇帝を殺害すると、妃の花蕊夫人を犯して後宮に入れた。花蕊夫人はかつての夫のことを忘れることなく偲んでいたという。

また、南唐後主の李煜の皇后・小周后は、北宋に捕らえられると、夫がいる身でありながら、宋の太宗にたびたび強姦された。小柄で可憐な女性だった小周后は犯されるたびに泣き叫び、その嬌声は夫を苦しめたという。2年近く慰み者となっていたが、夫が毒殺されると、28歳の小周后もまもなく死去した。

靖康の変によって北宋が滅亡した際、軍の兵士によって首都開封の多くの女性が強姦され、金へと連行された。北宋の皇帝だった徽宗は猟色家として有名で、150人以上の美女を後宮に入れていたが、彼女たちのほとんどは金の将兵に戦利品として分配されるか、洗衣院という官設の娼館に入れられた。皇女(帝姫)や欽宗高宗その他の皇族や官吏の妻と娘も同様の境遇となった。欽宗の皇后である朱皇后は恥辱に耐えられず自殺した。柔福帝姫、高宗の妻邢秉懿、徽宗の妃の新王婕妤たちが父親不明の子を妊娠させられたことや、幼い皇女たちが将来の性奴隷として洗衣院で育てられたことなどが、『靖康稗史箋證』に記録されている。

金の廃帝・海陵王は、皇族・臣下の妻を数十名も強奪し、姉妹や母娘(蒲察阿里虎完顔重節)をまとめて後宮に入れた。また、妊娠している宮女を無理やり堕胎させて強姦したともされる。こうした暴虐が重なったため、彼は暗殺されたという。

モンゴル[編集]

より有名なのは、モンゴル帝国の創始者チンギス・ハーンとその係累・後裔による強姦であろう。帝国による降伏勧告を受け入れず、抵抗の後征服された都市は、ことごとく破壊・略奪・殺戮され、女性も戦利品として王侯・軍隊などの権力者以下にあてがわれた。世界各地の男性のY染色体を調べた結果、かつてのモンゴル帝国の版図に高率で、共通の染色体が検出されたという話さえある(ブライアン・サイクス著『アダムの呪い』参照)。ただこれに関しては、モンゴル帝国以前からシルクロード一帯で勃興・滅亡を繰り返していたと言われる遊牧騎馬民族の西進がもたらした影響を割り引く必要がある。もっとも、チンギス・ハーンの妻であったボルテも、メルキト部に捕らえられた際に強姦されて、息子ジュチを妊娠したと考えられている。

その後、モンゴルは北へと退却し、中華は漢民族に奪回された、大ハーンのトグス・テムルは美女で知られたが、の捕虜となると、将軍の藍玉に強姦され、自殺に追いやられた。モングル人の若く美しい女性たちは犯され、売春宿へ送られた。明代をとおして、モンゴル族の部落の少女たちが代々官妓として売春宿で働かされていたと伝えられる。

高麗では忠恵王が暴君として多くの女性を強姦し、先王妃慶華公主元朝の皇女)もその被害にあった。

明・清[編集]

永楽帝靖難の変 ()で建文帝から帝位を奪った後、「永楽の瓜蔓抄」と呼ばれる悪名高い虐殺を行ったが、その際に多くの反対勢力の人物の一族の女性を陵辱させたといわれる。『奉天刑賞録』の「教坊録」には「永樂十一年正月十一日,本司鄧誠等於右順門里口奏,有奸惡齊泰的姐並兩個外甥媳婦,又有黄子澄妹四個婦人,毎一日一夜,二十條漢子守著,年小的都懷有身孕,除夕生了小龜子」とあり、齊泰 ()ら建文帝の忠臣の娘たちを性妓とし、二十人の男に昼夜を問わず嬲らせたことがわかる。そのうち年若かった彼女たちはすべて妊娠した。

明の滅亡の際にも、統制のとれない李自成軍は首都陥落時に大規模な強姦を行ったといわれる。懿安皇后張氏陳円円が被害にあった。平陽烈婦のように、地方反乱軍による被害もあった。また、朝鮮も清の侵略の際に多くの女性が強姦された。17世紀前半の丙子胡乱の敗北後、50万人もの若い女性を貢女として差し出すこととなり、彼女たちは中国人に性奴隷として弄ばれた。王族からも複数の王女が性奴隷として差し出されている。義順公主は、16人の侍女や女医たちとともに、清の皇族ドルコンの妾とさせられた。その後、ドルコンが大逆に問われると、奴婢に落とされ、彼女たちは別の皇族に犯されることとなった。

清に歯向かった少数民族の少女・皇仙娘娘が敗北後、囚われて男性凶悪犯と同じ牢に入れられて多くの辱めを受けたように、反逆した少数民族女性への扱いは過酷だった。

義和団の乱が起きると、西欧列強の兵士たちは北京で数千人もの中国人の若い女性・少女を強姦してまわり、自殺者が絶えなかったという。義和団の指導者の一人だった二十代後半のカリスマ女性・林黑兒もレイプされて殺されたと言われている。

現代[編集]

日中戦争では、水木しげるによれば、知り合いの兵士が中国のある村の村長の娘を輪姦した話を記録している[4]。その女性は若く、大学も出ており、とても美人だったが、一ヶ月にわたり彼らに強姦され、その後自殺した。逆に、通州事件では多くの日本人女性が強姦被害にあい、敦化事件 ()では日満パルプの社員寮にいた若い女性はみなソ連兵の慰み者となっている。

文化大革命のなか美人女優、孫維世 ()が投獄され、彼女は同室の男性囚人に輪姦された[5]。衰弱死した彼女は、最期には手枷と足枷以外なにも身につけていなかった。

2020年の香港ではデモ参加者の若い女性が性暴力にあっており、民主の女神・周庭が拘束中に検査としてズボンを脱ぐことを強制されるなどセクハラを受けたと話した他、16歳の少女が香港警察に輪姦され、妊娠・中絶の憂き目にあったともいわれる[6]

脚注[編集]

  1. 『列女傳』:「闔閭勝楚,入厥宮室,盡妻後宮,莫不戰慄,伯嬴自守,堅固專一,君子美之,以為有節。」
  2. 後漢書列女伝「文姬為胡騎所獲,沒於南匈奴左賢王,在胡中十二年,生二子」、蔡琰別伝「漢末 大いに亂れ、胡騎の獲ふる所と爲り、左賢王の部伍の中に在り」
  3. 隋書 韓擒虎
  4. 水木しげる『水木しげるの不思議旅行』サンケイ出版,1978年,p154-156。
  5. 『歴史を彩った性豪セックス列伝』
  6. 逮捕された16歳の少女、香港警察に集団レイプされ中絶手術受ける=香港メディア