洗衣院

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洗衣院は、金王朝が創設した娼館であり、北宋の捕虜女性の強制収容所としての役割を果たした。収容された女性は性的奉仕を強要された。

概要[編集]

靖康の変によって多くの女性がさらわれ強姦された。こうした女性たちは、一部は将軍や兵士の占有物となった。

連行された女性のうち、1300人が上半身裸で城門に並べられた。そのうち、1000人は皇帝の近臣に下賜された。

しかし、300人ほどは1127年6月7日に創設された洗衣院に収容された。『靖康稗史箋証』によれば、北宋から拉致した皇族女性を中心に、若い女性たちが収容されていた。1128年8月に10歳ほどの幼い少女たちも収容され、性奴隷とされた。収容された女性は男たちに強姦され、25歳の女性邢秉懿は望まない妊娠を強いられた。

洗衣院に関わる資料は、『靖康稗史箋証』が中心だが、『宋書』にも皇族女性たちが拉致されたことや、北宋側から処女数千人がさらわれ、そのうちの一部が入水自殺したことなどが伝えられている。

洗衣院のほかに元帥府女楽院というものがあり、こちらは400名ほどの市民女性を収容したようである。また、しだいに洗衣院や女楽院の女性は減り、金の宮院(後宮)や徽宗などに送られた。

なお、契丹)でも公主などの女性が多くさらわれ、金の慰みものとなっていた。

1135年に廃止されたと思われる。

服装[編集]

少なくとも収容当初は、上半身は裸で胸を露出し、下半身に1枚の羊のかわごろものみ着けただけの姿だった。

在籍娼婦たち[編集]

洗衣院に収容され、性奴隷となった女性の一覧。公主、諸王夫人、宗女、宗婦、宮女、官家女の合計286人と内侍24人で構成されていた。年齢は1127年時点の満年齢。

史料[編集]

  • 靖康稗史箋証/卷6』「二十四日,虜主以二帝見祖廟,時宮親戚貴已發通塞州編管,家奴、軍妓外,此皇子等三十人、妃主等一千三百人皆隨帝后居行幄。黎明,虜兵數千汹汹入逼至廟,肉袒于廟門外。二帝、二后但去袍服,餘均袒裼,披羊裘及腰,縶氊條於手。二帝引入幔殿,行牽羊禮。殿上設紫幄,陳寶器百席,胡樂雜奏。虜主及妻妾、臣僕胡跪者再,帝后以下皆胡跪。虜主親宰二羊入供殿中。虜兵復逼赴御寨,虜主升乾元殿,妻妾、諸酋旁侍,二帝以下皆跪。宣詔四赦,二帝受爵服出,與諸王坐候殿外小幄。后妃等入宮,賜沐有頃,宣鄭、朱二后歸第。已,易胡服出,婦女千人賜禁近,猶肉袒。韋、邢二后以下三百人留洗衣院。朱后歸第自縊,甦,仍投水薨。」
  • 『靖康稗史箋證/卷6』「燕人麈云:十月杪,金主令元帥府再選進昏德宮眷五十餘人,復發還奴婢四十人,同徙韓州。自此,宋宮眷屬留洗衣院者嬪女■沓(嬙)、公三(主)、諸王夫人、宗女、宗婦、宮女、官家女凡二百六十八人,又內侍二十四人。留養元帥府女樂院者四百餘人

関連項目[編集]