日本の強姦の歴史
この記事では日本の強姦の歴史を取り扱う。世界史については「強姦の歴史」を参照されたい。
古代[編集]
『魏志倭人伝』によれば、3世紀頃の日本社会では一夫多妻制が引かれており、身分の高い男は5・6人の女性、一般身分の男でも2・3人の女性を妻としていることは珍しくなかったという。こうした状況下で、性は比較的、解放されたものであり、性道徳のようなものはあまり見られなかったと考えている。
とはいえ、女性の意思に反する性交の強要がなかったわけではない。『隋書倭国伝』では、強姦は死罪とされていたと伝えられている。
日本神話の世界でも強姦が描かれており、スサノオが女神を強姦したことを暗示する話や、百襲姫が箸で陰部を突かれて死ぬという強姦されて死んだことを示すエピソードがある。また、雄略天皇が吉野川の近くで童女を見つけるやいなや押し倒して犯したという話も古事記には記載されている。
562年、新羅遠征に随行した将軍の妻である甘美媛 たちは、敵の捕虜となり、路上で強姦された。『日本書紀』はこの事件について「鬪將遂於露地奸其婦女」と伝えており、「奸」の字が強姦の意で用いられていたことがわかる。この後にこの女性は犯されたことを恥辱としており、女性の意思に反する性行為が忌むべきこととする概念が成立していたことがわかる。また、しばしば「密通」という文字も用いられ、これは和姦のみでなく強姦も含んだ用語だった。
576年には、伊勢大神に仕える巫女に任じられていた欽明天皇の皇女、夢皇女が犯された。これは単なる密通ではなく、強姦であることは論証されている[1]。彼女は処女のうら若い少女であったと考えられ、純潔を怪我されたがゆえに巫女を解任された。後任の巫女には敏達天皇の皇女、菟道皇女が就任した。が、578年に処女を無理やり奪われて解任された。菟道皇女はその後、妊娠が発覚し、宇治で出産したという。特徴的なのは両者とも皇族男性が犯人だったことであり、何らかの政治的な理由があったのかもしれない。
582年に敏達天皇が亡くなると、美しい皇后の額田部皇女 (後の推古天皇)は殯宮で喪に服していた。そんな皇后を強姦しようと目論む男が現れた。皇位継承候補の一人、穴穂部皇子である。臣下の三輪逆は殯宮の扉を固く閉ざし、額田部皇女を助けた。が、逆は穴穂部皇子らによって殺害されてしまう。その直後の額田部皇女の動向について、記録はないが、穴穂部皇子の慰み者となっていたと可能性はあるだろう。
772年には小宅内親王は菅生王に強姦され、斎宮になる予定だった彼女は皇族としての身分すら失ってしまい[2]、悲惨な生涯をおくったとおもわれる。同じ奈良時代には、藤原仲麻呂が敗死した後、娘の藤原東子が1000人の雑兵に輪姦されたという伝承も伝わる。
平安時代の日本では、『源氏物語』においてしばしば強姦が描かれている。また、『今昔物語』においては、寺社参りに行った若い未亡人とその侍女である少女が盗賊に強姦される描写がある。斎王の済子女王は、藤原氏の権力闘争に巻き込まれ、屋敷に侵入した身分の低い武士に密かに「突かれ」、処女を失い解任された。これは「密通」と記載されるが、当時の三つには強姦も含んでおり状況を考えるとレイプされたとみて間違いないだろう。
貴族のあいだでも強姦が横行した。例えば、観峯女が大江至孝らによって自邸を襲撃された上で強姦された事件がよく知られている。そのほか、道吉常の妻である仁町は、夫の単身赴任中に男に家に乗り込まれ、そこで強姦された挙げ句連れ去られて慰み者となっていたという。また、中務転侍という女官は宮中から下がる途中、惟貞という男に車を止められ、車の中で犯されたあと拘束されていた。
無秩序な東国ではさらに事情が深刻であり、寛仁4年(1020年)に貴族・藤原惟通の未亡人が強姦された際には、犯人である平為幹は逮捕されたものの翌年には赦免されてしまった。平将門の妻である君の御前は敵兵に捕らえられると、激しい責め苦のすえ殺され、その侍女はみな慰み者となった。逆に将門は宿敵・平貞盛を破った際に、自軍の兵に女性を強姦しないように命じたが、実際には貞盛の妻・源護の妻・源扶の妻ら多くの女性が辱められた。『将門記』には下のように記されている。
女人の恥を匿さんがために、勅命を下すといえども、勅命より以前に、夫兵のために悉く虜領せられたり。なかんずく貞盛が妻は、剥ぎ取られて形を露わにして、更に為方なし。眉の下の涙は面の上の粉を洗い、胸の上の炎は心中の肝を焦る。
平安末の法住寺合戦においては、源義仲の軍勢が撃ち入った後、後白河院に仕える女房たちの多くが全裸とされていた。これは義仲の軍勢が都で強姦を働いたということであり、部下の樋口兼光は御所の高貴で美しい女官たちを監禁すると、数日にわたって嬲り尽くしたという。
中世[編集]
鎌倉時代後期ごろまでは性倫理が曖昧で、後深草院二条のように、貴族の少女でありながら、多くの男性に弄ばれる者も存在した[3]。室町時代中期頃から、甲府地方では山道を行く旅娘を襲い、「よばれる」と称して山小屋に監禁して輪姦する風習があったという[4]。この風習は昭和前期まで続いたといわれる[4]。
名門貴族の少女、西園寺禧子は父に溺愛されていたが、10歳のある日、行方不明となった。父は心配したが、やがて政治的な理由から尊治親王に拉致されていたことが発覚する。発見されたとき、幼い少女の腹は膨れた状態であり、親王の子を孕んでいた。
戦国時代には、戦いの後に乱妨取りと呼ばれる略奪が起こり、多くの女性が凌辱された。小田井原の戦いの後、武田氏は志賀城に籠城していた男女を人身売買し、城主の笠原清繁夫人が敵方の妾とされた事例がある。大阪の陣では、多くの市民女性や豊臣方の女性がその場で強姦されたり、拉致されてりしている。
近世[編集]
江戸時代においては、1747年に制定された公事方御定書下巻(いわゆる御定書百箇条)では「強姦をした者は重追放と手鎖」「幼女強姦をした者は遠島」「輪姦をした者には獄門もしくは重追放」などそれぞれ重罰が科せられていた。このような厳罰にもかかわらず、江戸の町の夜には、強姦される女性の悲鳴が絶えることがなかったという。
また、江戸の浴場のほとんどは混浴であり、かつ薄暗さと湯気のため周りがよく見えなかった[5]。そのため若い娘が男たちに強姦され妊娠することがしばしばあり、そうして生まれた子を「湯の子」と呼んだという[5]。
第11代将軍の徳川家斉には峯姫という娘がいたが、その侍女として、唐橋というものがいた[6]。唐橋は公家の娘であるとともに絶世の美女であり、家斉に性的関係を求められても断る誇り高い女性だった[6]。が、峯姫の輿入れ先で、姫の夫の弟弟にあたる徳川斉昭に一室に連れ込まれ、手籠めにされたという[6]。唐橋は妊娠し、京都にひそかに送り返された[6]。
幕末の戊辰戦争においては会津若松城下などで大規模な強姦が行われたとされる[7]。なかでも武士の23歳の未亡人・神保雪子は敵兵に拉致された挙句、数日間にわたって凌辱され、衣服がボロボロとなるまで犯され、自殺した[8]。他にも多くの女性が強姦され、生き残った100人の女性や少女は皆妊娠しており、なかには8歳や10歳の少女がいたという[9]。
また、幕末期の女性医師楠本イネは、師匠にあたる人物に処女を奪われて妊娠した。その結果生まれた楠本高子も医学を志したが、医師によって強姦されて妊娠しており、また、楠本イネの異母妹の少女・楠本松江も強姦されて妊娠している。この事例は、女性が伝統的な社会の枠組みを破り社会に進出することがいかに困難であったかを物語っている。
近代[編集]
日本では1907年(明治40年)に刑法が制定されたが、その当時強姦罪は娘と妻を性的に家父長の支配下に置こうとするものであったとされる。
1908年 (明治41年)に、幸田ゑん子という美人の若い人妻が強姦されるという事件があり、「出歯亀」の語源となった。1920年の尼港事件では、日本人居留民と現地ロシア人の女性・少女の大半が赤軍に強姦された[10]。女学校の生徒たち50人程度は兵営に連れて行かれると、ほとんどが兵士への性的奉仕を強要され、強姦された[11]。抵抗した女子生徒は強姦された後すぐ殺され、兵士に従順に従い、肌を許した女子生徒も最後には殺されており、他の女性たちも同様の目にあった[12]。ある著名な活動家の妻は性的奉仕を強いられ、抵抗したが強姦され続け、最後には自殺を強いられたが拒否し、射殺されたという[13]。
水木しげるは、知り合いの兵士が日中戦争時に中国のある村の村長の娘を輪姦した話を記録している[14]。その女性は若く、大学も出ており、とても美人だったが、一ヶ月にわたり彼らに強姦され、その後自殺した。逆に、通州事件では多くの日本人女性が強姦被害にあい、敦化事件では日満パルプの社員寮にいた若い女性はみなソ連兵の慰み者となっている。
脚注[編集]
- ↑ 林一馬「古代の斎王(下)」(長崎総合科学大学紀要)p.51
- ↑ 林一馬「古代の斎王(上)」(長崎総合科学大学紀要)p.224
- ↑ 『とはずがたり』。
- ↑ a b かつて甲府地域にあった奇習「旅娘輪姦」とは?
- ↑ a b 安村敏信『絵から読み解く 江戸庶民の暮らし』142-143頁。
- ↑ a b c d 永井義男『江戸の性の不祥事』学研プラス、2009年。
- ↑ 『会津落城 戊辰戦争最大の悲劇』中央公論新社、2003年。
- ↑ 中村彰彦『幕末会津の女たち、男たち』文藝春秋、2012年。
- ↑ 井上昌威「会津人群像」二十六号「会津にある小梅塚」
- ↑ アナトリイ・ヤコフレビッチ・グートマン(A.Ya.Gutman)著 エラ・リューリ・ウィスウェル(Ella.Lury.Wiswell)米訳 齊藤学和訳『ニコラエフスクの破壊 =尼港事件総括報告書=』(原題:Gibel Nikolaevska-na-Amure 米題:THE DESTRCTION OF NIKOLAEVSK-ON-AMUR) ユーラシア貨幣歴史研究所、2001年。P240。
- ↑ アナトリイ・ヤコフレビッチ・グートマン(A.Ya.Gutman)著 エラ・リューリ・ウィスウェル(Ella.Lury.Wiswell)米訳 齊藤学和訳『ニコラエフスクの破壊 =尼港事件総括報告書=』(原題:Gibel Nikolaevska-na-Amure 米題:THE DESTRCTION OF NIKOLAEVSK-ON-AMUR) ユーラシア貨幣歴史研究所、2001年。P110。
- ↑ アナトリイ・ヤコフレビッチ・グートマン(A.Ya.Gutman)著 エラ・リューリ・ウィスウェル(Ella.Lury.Wiswell)米訳 齊藤学和訳『ニコラエフスクの破壊 =尼港事件総括報告書=』(原題:Gibel Nikolaevska-na-Amure 米題:THE DESTRCTION OF NIKOLAEVSK-ON-AMUR) ユーラシア貨幣歴史研究所、2001年。P110。
- ↑ アナトリイ・ヤコフレビッチ・グートマン(A.Ya.Gutman)著 エラ・リューリ・ウィスウェル(Ella.Lury.Wiswell)米訳 齊藤学和訳『ニコラエフスクの破壊 =尼港事件総括報告書=』(原題:Gibel Nikolaevska-na-Amure 米題:THE DESTRCTION OF NIKOLAEVSK-ON-AMUR) ユーラシア貨幣歴史研究所、2001年。P110。
- ↑ 水木しげる『水木しげるの不思議旅行』サンケイ出版,1978年,p154-156。