煬帝

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煬帝(ようだい/ようてい,英:Yang Guang/ Emperor Yang of Sui)はの第2代皇帝である。在位は604年から618年

土木事[編集]

即位翌年の605年に通済渠、608年には永済渠を開削し、大運河を建造した。運河には軍事的な目的もあり、永済渠は高句麗遠征に備えた軍需物資輸送のためと言われる。

倭国との関係[編集]

607年、日本の摂政(または天皇)が遣隋使小野妹子を派遣した。国書に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」という文があったため、煬帝は不快を覚えたとの説がある。

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「煬」は悪逆な皇帝を示す諡である。兄を失脚させ、父を殺して即位したと言われる。

墓の発見[編集]

2012年12月に中国の揚州市で煬帝の墓が発見された。墓からは高貴な副葬品と共に「墓誌銘」が発見された。ここに隋の煬帝の名と、揚州で崩御したことが記され、煬帝墓の決定的証拠とな;つた。墓室からは歯が発見され、年齢は50歳前後と推定されている。煬帝の墓は複数存在している。史料によれば煬帝が殺害された直後、そして更に唐の高祖・李淵による埋葬、と何度か埋葬されている。今回発見の墓は煬帝の最終埋葬地と推定されている[1]

参考文献[編集]