欽宗
欽宗(きんそう、元符3年4月13日(1100年5月23日) - 紹興31年5月19日(1161年6月14日?))は、北宋の第9代(最後の)皇帝。徽宗の長子で、南宋で即位した高宗の長兄に当たる。姓名は趙 桓(在位:1125年 - 1127年)。
略歴[編集]
即位と金との屈辱的な和睦[編集]
第8代皇帝・徽宗の長男。1125年に父の徽宗が金に対する度重なる背信外交により、結果的に金軍の南下を招いたことから「己を罪する詔」を下して帝位を長男に譲位することを宣言したことから、欽宗が北宋の第9代皇帝として誕生した。欽宗は「広く言を求むるの詔」を出して全国に勤王の軍勢を募り、さらに元号も靖康と改元して、金に対する防備も固めた。しかし、徽宗時代に既に北宋軍はほぼ役立たずと化しており、欽宗がどれだけ必死になろうと最早手遅れであった。
北宋政府では主戦派と講和派が対立して争い、その対立の間に金軍は遂に北宋の首都・開封まで到達する。主戦派の李鋼は正規軍のみならず、市民も徴兵して勇敢な戦いを繰り広げて一時は金軍を苦しめ、さらに欽宗が出した詔が奏功して各地から勤王の軍勢が到来したので、一時的ながら北宋軍は有利になった。ところが、講和派の李邦彦が欽宗を説得し、欽宗もこれを受け入れる失策を犯してしまう。主戦派の李鋼や勤王軍はこれを聞き入れずに金軍と戦い善戦したが、欽宗はかえって講和の邪魔と考えて李鋼を罷免するという失策を犯した。
結局、欽宗は金軍に謝罪し、金軍のほうも敵中深くに侵攻していることから長期戦になることを恐れて、欽宗に人質の提出を求めて撤退する。この際の和睦の条件は人質の他に「金500万両、銀5000万両、牛馬1万頭、絹布100万疋を北宋が金に出すこと。金の皇帝を北宋の皇帝が伯父として尊ぶこと。中山・太源・河間の3鎮の地を割譲すること」という、事実上の降伏に等しい条件であった。
靖康の変[編集]
詳細は「靖康の変」を参照
金軍が首都の開封から撤退すると、この屈辱的な和睦は北宋の軍民を激怒させ、主戦派の李鋼の復職と徽宗時代に専権を欲しいままにした蔡京・童貫らの処分を欽宗に求めるようになる。この世論の沸騰を欽宗は聞き入れ、李鋼の復職と蔡京とその息子・蔡攸、さらに童貫らを処罰した(蔡京は流罪となってそこで憤死。蔡攸と童貫は誅殺された)。
主戦派の李鋼は、撤退中の金軍を追撃する作戦、あるいは北宋軍を迂回させて金軍を撃滅させる作戦を欽宗に提案するが、講和派の李邦彦が反対したことから欽宗はこれを聞き入れなかった。それどころか、北宋の各軍に対して停戦命令を出して戦闘の禁止を厳命したりしてかえって味方の士気を落とす愚を犯した。ところが、欽宗は金から人質交換の際に提出されていた趙倫という男の甘言を聞き入れて、遼の残党と結託して金を討とうとする背信行為を犯してしまう。徽宗の時代にも北宋は金に対してたびたび背信行為を繰り返していたことから、金はこの北宋の背信行為に最早切れてしまった。先の和睦は破棄されたとして、金軍は1126年に粘没喝を総司令官とする大軍を開封に向けて南下させた。すると、北宋政府は弱気になって講和派が台頭し、主戦派の李鋼を罷免して講和を申し入れた。
しかし、金は最早和睦を聞き入れなかった。北宋軍はやむなく抵抗するが、李鋼はおらず勤皇軍も先の欽宗の失態から以前ほどは駆け付けなかった。また郭京という一兵士の甘言を聞き入れて守備軍を逆に自壊させたり、使用する武器に関しての管理をめぐって味方同士で罪のなすりつけあいをしたりするなど、最早抵抗というにも及ばない身内同士の争いを繰り返して、1126年11月に遂に開封は陥落した。
金軍は開封に入城すると、粘没喝が欽宗に対して自ら和平交渉に当たるように要求。欽宗はこれに対して返答を先延ばしにするだけであり、その間に金軍は北宋政府の書類や財宝を奪ったり、金の後宮に入れると称して市中の若い婦女を連行したりした。1127年1月、粘没喝は欽宗に対して金1000万両、銀2000万両、絹1000万疋を差し出すように要求する。欽宗はこれに対して民間の金銀を強制的に買い上げて集めようとしたが、要求額には遠く及ばなかったことから結局、宮殿にある金銀財宝や徽宗が集めた書画までが徹底的に奪われることになった。2月、粘没喝は欽宗に対して自ら出頭しないならば身の安全は保障しないという脅迫を行い、これに屈した欽宗は2月11日に粘没喝の下に出頭した。粘没喝は欽宗に対して冷然とした対応をして、再度の出頭を条件にひとまず宮殿に帰ることを許した。3月、金の太宗呉乞買は詔を発し、北宋皇帝の廃位と異性の皇帝の擁立を宣言。これにより欽宗は北宋皇帝としては廃されることになった。
粘没喝はさらに欽宗の父で上皇の徽宗も出頭させ、さらに北宋の皇族・后妃・諸王を金の軍営に引き立てた。粘没喝は欽宗と徽宗に身分の低い庶民の服を着用させて徹底的な屈辱を与えた。そして、欽宗は徽宗以下多くの皇族や后妃と共に、北に連行されることになった。
哀れな末路[編集]
北に連行された欽宗は、徽宗と共に韓州(現在の遼寧省昌図県)に所領を与えられたが、食事に関しては自ら耕作して収穫するという元皇帝とは思えないみじめな生活を送らされることになった。
欽宗の弟の康王が高宗として即位して南宋が建国されると、金と南宋の間で和睦が行なわれ、その条件として高宗の兄の欽宗、生母・韋賢妃などの送還が南宋に対して金から持ちかけられた。しかし高宗は生母や自らの妃に関する送還には積極的に応じるものの、欽宗の送還にはあくまで応じず金側に抑留されることを望んだ。これは、高宗の即位が正式な手続きを踏んだものではなく、欽宗が帰国した場合に高宗が廃される恐れがあったからといわれている。
欽宗は故国に戻りたい一心があったようで、高宗の生母である韋賢妃が帰国を許された際に、韋賢妃に対して自らも帰国させてくれるように異母弟の高宗に頼むように懸命に求めたという。この際に欽宗は、故国に戻ったら僧侶となって過ごしたいと述べたとされており、既に皇帝の地位には何の未練も無かったようである。しかし韋賢妃も帰国すると、息子の地位が脅かされる恐れから帰国を求めようとはしなかった。
1135年には父の徽宗も崩御し、欽宗は寂しく配所において1161年に崩御した。ただし、没年に関しては1156年説もあるなど、諸説があり定かではない。また『宣和遺事』という信頼性の疑わしい説話集によると、徽宗も欽宗もかなり哀れな晩年を送っていたことが記されている。
家族[編集]
妻妾と用人[編集]
- 仁懐皇后朱氏
- 朱慎徳妃(朱皇后の従妹)
- 才人鄭慶雲、才人韓静観、才人劉月娥、才人盧順淑、才人何鳳齡、才人狄玉輝、夫人戚小玉、夫人鄭月宮、夫人蒋長金、夫人鮑春蝶
- 内宰宋淑媛、副宰田芸芳、内史曹妙婉、内史卜女孟、内史席進士、内史程巧、内史兪玩月、内史黄勤
- 尚儀徐金玉、尚儀許春雲、尚服周男児、尚服徐宝蓮、尚食何紅梅、尚食楊調児、尚寝方芳香、尚寝陳文婉、尚功沈知礼、尚功葉寿星、宮正華正儀
- 使令呂吉祥、褚月奴、駱蝶児、顧頑童、芮秀、厳鶯簧、姜田田、衛猫児