強姦の歴史
強姦の歴史(ごうかんのれきし)では、世界史上の性暴力について説明する。
何をもって「強姦」とするかという、強姦の概念については、時代と地域によって大きく異なる。が、「女性(あるいは男性)の意思に反する性行為」は古代から存在したことは間違いなく、本項目ではそうした行為を広く「強姦」と捉え、古代から現代まで、西洋、東洋、日本の地域ごとに具体的な事例を挙げる。
特に少数民族のような社会的弱者はしばしば集団での大規模な性暴力にさらされた。一方、戦時においては、敗者の側の女性はしばしば勝者の将校や兵士たちによる慰み者とされ(、しばしば王女や后妃といった上層階級の女性たちも戦時性暴力の対象となる。
西洋[編集]
聖書と強姦[編集]
『旧約聖書』には、しばしば強姦の描写がある。その冒頭の「創世記」には、ヤコブの娘ディナ(デナ)が凌辱されたことが記されている。彼女は家族とともにシェケムの町に滞在したが、その地の男に捕らえられ辱められたのである。「シケムが彼女を見て、引き入れ、これと寝てはずかしめた」また「彼らが妹を汚したからである」と書かれているとおり、これは強姦だった。その後、ディナの兄たちは、シェケムの町の男たちを剣で皆殺しにした[1]。
さらにサムエル記では、ダビデの美しい王女タマルが異母兄アムノンに襲われ、抵抗したものの暴力的に強姦され、処女を失った[2]。またダビド自身も美しき人妻バト・シェバを強姦して妊娠させた。しかし、ダビドの側室10人は反逆者の息子アブサロムによって国民の前でレイプされ、彼に監禁されて慰み者となった[3]。より悲惨なのは、士師記に登場するレビ人のそばめである。彼女は、旅のさなか大勢の男に捕らえられて夜通し輪姦された[4]。
彼らはその女を犯して朝まで終夜はずかしめ、日ののぼるころになって放し帰らせた。 — 士師記
結局、彼女は全裸で宿に戻るも、門の前で倒れ、そのまま死去した[5]。
古代ギリシア[編集]
古代ギリシアにおいては、ギリシア神話において強姦がしばしば描かれている。最高神ゼウスはエウローペーをラキ監禁・強姦して三人の子を孕ませていて[6]、これはティッツァーノらがエウローペーの強姦(The Rape of Europa)として描く画題になった。女神デメテルは海神ポセイドンら複数の男に無理やり犯されて妊娠している。ポセイドンは他にも美しい処女のメドゥーサを神殿で強姦し、身ごもらせている他、カイニスというテッサリア一の美少女をレイプしている。カイニスが「二度とこんなひどい目にあわないよう、わたしを男にしてください」と願ったように[7]、古代ギリシアでも強姦は忌むべきことであった。狩人オリオンは、乙女オーピスを強姦した罪でアルテミスによって殺害されともいわれる[8]。
また、イリオスの王女カッサンドラーが敵将によって強姦されたという話が示すように、古来より戦争には兵士による女性の強姦が付き物であった。カッサンドラーは別の将軍の妾とされた後に殺害されるという悲劇をたどった。同じトロイア戦争では、捕虜となった神官の娘クリュセーイスが敵将アガメムノンに性的奉仕を強いられ、望まぬ妊娠をしたという説話もある。アガメムノンは、愛娘の解放を求める神官に言い放った[9]。
わが舘の中、機に寄り、閨に仕へて老齡の逼らん時の來る迄、なんぢの愛女放つまじ
また、英雄アキレウスも、金髪碧眼の美女ブリーセーイスらを性奴隷としている。彼女は家族をアキレウスに殺害され、後にアガメムノンに引き渡され弄ばれた[10]。このように、陥落した都市や征服された民族の少なくない女性・少女がしばしば捕虜となり、戦利品や見せしめとして強姦の対象になったとかんがえられる。2018年の小説『女たちの沈黙』はブリセイスら性奴隷の視点から、このような悲惨な状況を描いている。
デルフォイの神殿の巫女は「ピュティア」と呼ばれ、美しく年若い処女の少女が代々努めていた。だが、軍人の テッサリアのエケクラテス(Echecrates of Thessaly)は神殿を訪れた際にピュティアのあまりの美しさに惹かれ、彼女を誘拐して陵辱してしまったという。エケクラテスは処刑されたが、神聖な巫女、それも美しくいたいけな少女が強姦され、処女を奪われるという事件は人々に衝撃を与え、以後ピュティアは老齢の女性が務めることになったという[11]。
紀元前4世紀のアレクサンドロス大王軍にも多数の女性が含まれており、娼婦や女性捕虜は強姦されていたと考えられている。テーバイの貴婦人ティモクレアは自宅を襲われ、兵士にレイプされ、復讐としてその兵士を罠にかけて殺している。また、クセノポンのギリシア人傭兵部隊の性欲処理の対象には、多数の若者や少年も含まれていた。
古代ローマ[編集]
古代ローマにおいても、建国神話のなかに多数の強姦の事例が含まれる。アルバ・ロンガの王女レア・シルウィアは、父が殺されると、叔父によって、子孫を残さぬように、ウェスタの巫女として処女であることを義務付けられた[12]。だが、レアは男によって強姦され、妊娠してしまった[13]。レアは戦争の神マルスに犯されたのだと言ったが、歴史家リウィウスによれば、これはどこの誰とも知れぬ男であったと考えられ、レアは牢に閉じ込められれてしまう[14]。この話は川に水を汲みに行ったレアが心地の良さに眠っていたところをマルスが襲ったというふうに詩人に脚色されたが[15]、また一説によれば、彼女を犯したのは叔父のアムリウス自身であったともいう[16]。仮にそうであれば、牢に入れられたレアが、その後もアムリウスの慰み者となったことは想像に難くないであろう。
そのレア・シルウィアの子として生まれたのが、ローマ建国の祖ロムルスである。彼は都市の維持のためヘルシリアをはじめとするサビニの女たちの略奪(The rape of the Sabine women)を行った。男ばかりのローマ人たちは、祭りと偽りザビニ族を呼び寄せ、その少女たちを騙して拉致したのだ。ヘルシリア以外の大半は処女だったが、子孫を残すためにローマの人々にあてがわれ、やがて望まぬ子を妊娠した。
ローマにおいて、最も有名な強姦された女性は、ルクレティアであろう。彼女はローマの王子によって強姦された結果、自殺した。この強姦はローマ王政の崩壊につながった。
その後、紀元前397年のアッリアの戦いの敗戦により、ローマははじめて異民族による略奪を受けた。この際、ウェスタの処女を含む多数の市民女性が性奴隷として連れ去られた。
一方、ローマ人は占領地においてしばしば女性を陵辱した。ケルトの女王ブーディカは、ローマ人に欺かれ、半裸で鞭打たれ辱められた。それだけでなく、まだ10代の若い二人の娘もローマ兵士たちに輪姦された[17]。また、『コーラン』には、聖母マリアの処女懐胎の真相が、ローマ兵士たちによる輪姦だったことを示唆する記述が存在する。この説はイギリスの放送局BBCの番組でも取り上げられた。
古代ローマ社会において処女を殺すことは宗教上の禁忌だったため、処刑される処女は必ず強姦された[18]。これは刑吏の権益の一つとなっていたと考えられている[18]。例えば、20歳の巫女(ウェスタの処女)が処刑前に強姦されている[18]。政治家のセイヤヌスの娘も6歳にして、そのように扱われた[18]。このことはタキトゥスも記録しているが、セイヤヌスの娘の年齢について言及はなく、14歳ないし15歳だったともかんがえらえる。
キリスト教信者の女性もしばしば強姦の危険にさらされた。彼女たちは貞操を守ることが求められる一方で、教義で自殺が禁じられていた。そのため、キリスト教信者の多くが処刑されたが、前述のとおり処女であれば例外なく強姦されてから殺された。信者の少女であった有名な聖アグネスは全裸で市中を引き回された上、売春宿に送られた。ここで売春を強要され、客の男性たちに輪姦されて処女を奪われた後、処刑されたと考えられる。ただし、伝承では彼女の純潔は奇跡的に守られたとされている。
ローマ帝国の衰退にともない、ゴート族の侵攻が行われるようになると、以後は3度にわたって略奪が行われ、大規模な強姦が起こった。アッリアの戦いの後、蛮族はローマの市民女性を襲い、さらにウェスタの巫女の処女を奪い、性奴隷とした。455年のローマ略奪も過酷を極めたが、その発端はローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世が臣下の妻ルキニアを強姦したことにある[19]。皇帝はルキニアの夫であるペトロニウス・マクシムスに暗殺された。彼は自ら帝位につくと、先帝の妃であるリキニア・エウドクシアと強引に婚姻した。そして、リキニア・エウドクシアは、強制された結婚から逃げ出すためにヴァンダル族のガイセリックに助けを求めた結果、ローマは蛮族に蹂躙されることとなった。皇帝は殺害され、多くの市民女性が凌辱されるなか、リキニア・エウドクシア自身と、その長女である16歳のエウドクシア、次女の12歳のプラキディアがヴァンダル族の妾とされた。彼女たちは連れ去られたまま7年間にわたって解放されず、エウドクシアは妊娠・出産した。
中世[編集]
その後、ローマが滅ぶと、西洋には暗黒時代が訪れた。8世紀以降、国家が分裂し、小規模な軍隊が作られたことで、軍による強姦はより散発的に起こるようになった。いわゆる初夜権などによって、領主による性的収奪が行われ、処女が実質的に強姦されることもあった。また、支配者層の女性でも、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の皇后、エウプラクシアは、夫の性的嗜好により、貴族の男たちとの乱交を強要され、父親不明の子を妊娠している。
支配者層が変更されれば、旧支配者の一族の女性は高貴な身分でありながら強姦されることもあった。キリキア・アルメニア王国の幼い女王イザベル1世は15歳でありながら、叛逆者に捕らえれて牢に監禁され、叛逆者の息子に犯された。イザベルは叛逆者の息子に結婚を認めるように迫られ拒絶したが、たびたび凌辱された挙句、子を孕むに及び、ついに屈服した。10世紀にポロツク公女ログネダやギリシア人修道女が、聖ウラジーミルによって強姦された事例がある。シチリア王国の王女ベアトリーチェ・ディ・ホーエンシュタウフェンは、父王が敗死すると、新たな王に監禁され、年若い母とともに9歳のころから凌辱を受けていた。ベアトリーチェは22歳のときに解放され、貴族と結婚したものの、別の男に略奪されて慰み者となった。また、「ウェールズのヘレン」とも呼ばれる美貌の王女ネストは、24歳のときに誘拐のすえ強姦され、解放されるまでに二人の子を妊娠すらしている。
14世紀以降、人口の増加もあり、西洋では傭兵が溢れかえった。国家はそれら傭兵を養うだけの財産がなく、略奪そして強姦する部隊が増加した。有名な事例では、イングランド出身の傭兵隊長ジョン・ホークウッドは、町を占領すると、その町の娘たちを全裸として組織的に輪姦した。ある若く美しい娘は三十人の男に襲われ、息絶えてしまったという。こうした状況に対し、1337年から1453年に及んだ百年戦争の時期には強姦を犯罪として扱う方針が実親されるようになった。
百年戦争におけるもっとも有名な強姦された女性はジャンヌ・ダルクだろう。『ジャンヌ・ダルク復権裁判』中の証言によれば、男装をやめた彼女はイギリス兵たちによって輪姦され、その後、牢内で嗚咽をもらしていたとされる。異端審問や魔女狩りの際には、しばしば拷問の一環として強姦が行われたが、ジャンヌ・ダルクの強姦にはそうした拷問としての性格を有していたと考えられる。
コンスタンティノープルの陥落の際には、修道院はトルコ兵による凌辱の場となり、多くの女性が拉致されて性奴隷とされた。また、市民の乙女たちも同様であり、井戸に身投げしない限りは競売にかけられ、辱められる運命をたどった。
近世[編集]
近世になっても傭兵はしばしば戦場に登場し、多くの地で略奪・強姦を働いた。また、敗者の側に立った女性はたとえ皇女であっても犯されることがあった。17世紀、ロシア皇女クセニヤ・ゴドゥノヴァは、高い教養をもつ知的な20代前半の美人として広くヨーロッパに知られ、また未婚だったため処女であった。しかし、弟である皇帝が殺害された後、叛逆者に捕らえられ、宮殿で強姦された。そのあと、クセニヤは5ヶ月ものあいだ性奴隷とされていたという。クセニヤは修道院に監禁されて、一説によれば、ひそかに望まぬ子を産んだ。28際の時にも遊牧民によって修道院が襲撃され、その際には裸に剥かれ輪姦されている。
三十年戦争においてマクデブルクの戦いした際、皇帝軍の傭兵は、大多数の市民を虐殺し、生き残った約5000名の女性をすべて慰み者として犯したとされる。
近世以降、西欧諸国は各地に植民地を作るが、これらの地において、しばしば侵略者は、先住民女性を自らの性奴隷とした。例えば、インカ帝国が滅亡すると、皇女キスペ・シサをはじめとする多くの先住民女性がピサロたち侵略者男性に性奴隷として奉仕させられた。一方で、植民地において支配者が統治に失敗すると、支配者側の家族の女性が凌辱されることもあった。たとえば17世紀、鄭成功によって台湾がオランダから奪回されると、オランダ人女性たちは中国人兵士の慰み者となった。宣教師アントニウス・ハンブルクの娘の10代の少女たちも、鄭成功の妾とされている。
アメリカ合衆国では植民地時代からレイプを死刑と定めていた。これによって、多くの黒人が処刑された。
近代・現代[編集]
19世紀でも、13歳当時のナポレオン3世がメイドをレイプしたという話に伝わるように、使用人の女性はしばしば上流階級の男の慰み者となった。
二度の世界大戦の時代は、戦時性暴力が猛威を振るった時代でもあった。第一次世界大戦後、連合軍兵士はドイツを占領したが、兵士のなかには、アフリカ植民地出身の黒人も含まれていた。彼らはドイツ人女性を襲い犯し、これは「黒い恥辱」としてドイツで記憶されることとなった。
第二次世界大戦の際、ドイツ軍は売春婦を集めて兵士たちの慰安に当たらせたが、後にポーランドやウクライナの女学校から女学生を強制的に連行し、慰安婦にしたという。フランスの作家サン=ポル=ルーの娘ディヴィーヌは、ドイツ兵に屋敷に侵入され、逃げようとしたものの脚を銃で打たれた後、父の目の前でリビングで強姦された。
イギリスでは慰安所の類は作らなかったものの、インド駐留のイギリス兵が、10歳のインド人少女を押さえつけ無理やり犯していたという話もある。終戦後のポーランドでは、ソ連の兵士が多くの市民女性に強姦を働いた。ある修道院では若い修道女の全員が輪姦され、何人かは妊娠したという。映画『夜明けの祈り』はこのときの話を描いた映画である。またベルリンでは10万人から13万人もの女性がソ連の兵士に陵辱された。『ベルリン終戦日記―ある女性の記録』の著者である女性ジャーナリストは、ロシア語が話せたため、ソ連兵士に蛮行を止めるよう交渉を申し出るも、逆に彼女自身も多くの兵士に輪姦される結果に終わった。その後、彼女は身を守るために多くの将校に自ら性的奉仕をしなければならなくなった。
東洋[編集]
詳細は「中国における強姦の歴史」を参照
春秋戦国から五胡十六国まで[編集]
儒教倫理が確立する前の古代中国では、性倫理が確立されていなかった。春秋戦国時代には、ある国の君主が死ぬと、新たな君主は先代の君主の側室たちを襲ったという。
呉王闔閭が楚の昭王を敗走させ、楚に侵入すると、昭王の後宮にいた美女たちをことごとく犯し、女性たちは恐怖しないものはなかったという。この際、美貌で知られた昭王の母・伯嬴が抵抗し、それを美徳とすることからも、このころには強姦されることを怖れ、恥とする観念が成立していたことがわかる[20]。
漢文においては、強姦のことを「逼辱」と記載する。「後漢賊臣董卓廟議」では董卓軍が洛陽に侵入した際に「逼辱妃嬪」したと記しており、また、後漢書董卓伝でも皇女(万年公主のことか)や宮女を強姦し、陽城からさらってきた女性たちを性奴隷としたという。この董卓の乱の際には、名家に生まれた才色兼備の美少女・蔡文姫が匈奴にさらわれ、その奴隷として強姦され妊娠、十二年間にわたって慰みものとなったという悲劇もあった[21]。
中国史では北方の遊牧民族と漢民族の衝突が繰り返し起き、前者によって後者の女性たちが性奴隷とされることがしばしばあった。特に五胡十六国時代は戦乱の時代だったため、この種の強姦が頻発している。西晋の皇后、羊献容や梁蘭璧、皇女の武安公主らは北方の遊牧民族に輪姦された挙句、彼らに連れ去られた。東晋の皇后・庾文君も反乱軍に捕らわれて輪姦され、絶望のうちに死んだ。また、梁の皇女である溧陽公主は父祖を害した侯景の妾とされ弄ばれた。寿陽公主は爾朱世隆に手籠めにされかけて殺された。陳の皇女であった宣華夫人陳氏は、陳を滅ぼした隋の文帝と煬帝の親子2代にわたってその側室とされている。
一方で、皇帝・君主による性的収奪も大規模に行われた。北魏の皇族女性安徳公主たちは、北斉の文宣帝に公開凌辱されている。その文宣帝の皇后李祖娥は美貌で知られたが、後に即位した武成帝に強姦され、妊娠させられている。南朝宋の前廃帝は皇族の妃(建安王太妃)を臣下に強姦させ、また、尼寺に行くとまだ尼になっていなかった幼く可憐な少女を強姦し、側近たちにも犯させた。
唐を滅ぼした後梁の皇帝朱全忠は好色で、息子たちの若い妻を夜な夜な寝室に呼んで無理やり犯し妾同然にしており、また腹心の張全義の家の若い女性たちをみな慰み者とした。張全義の息子はそのため朱全忠を殺そうとしたが、果たせず、そのまま女性たちは朱全忠にもてあそばれた。
北宋と金[編集]
五代十国時代の乱世を勝ち抜いた北宋は、初代皇帝の趙匡胤が後蜀を滅ぼし、その皇帝を殺害すると、妃の花蕊夫人を犯して後宮に入れた。花蕊夫人はかつての夫のことを忘れることなく偲んでいたという。
また、南唐後主の李煜の皇后・小周后は、北宋に捕らえられると、夫がいる身でありながら、宋の太宗にたびたび強姦された。小柄で可憐な女性だった小周后は犯されるたびに泣き叫び、その嬌声は夫を苦しめたという。2年近く慰み者となっていたが、夫が毒殺されると、28歳の小周后もまもなく死去した。
靖康の変によって北宋が滅亡した際、金軍の兵士によって首都開封の多くの女性が強姦され、金へと連行された。北宋の皇帝だった徽宗は猟色家として有名で、150人以上の美女を後宮に入れていたが、彼女たちのほとんどは金の将兵に戦利品として分配されるか、洗衣院という官設の娼館に入れられた。皇女(帝姫)や欽宗、高宗その他の皇族や官吏の妻と娘も同様の境遇となった。欽宗の皇后である朱皇后は恥辱に耐えられず自殺した。柔福帝姫、高宗の妻邢秉懿、徽宗の妃の新王婕妤たちが父親不明の子を妊娠させられたことや、幼い皇女たちが将来の性奴隷として洗衣院で育てられたことなどが、『靖康稗史箋證』に記録されている。
金の廃帝・海陵王は、皇族・臣下の妻を数十名も強奪し、姉妹や母娘(蒲察阿里虎と完顔重節)をまとめて後宮に入れた。また、妊娠している宮女を無理やり堕胎させて強姦したともされる。こうした暴虐が重なったため、彼は暗殺されたという。
モンゴル以後[編集]
より有名なのは、モンゴル帝国の創始者チンギス・ハーンとその係累・後裔による強姦であろう。帝国による降伏勧告を受け入れず、抵抗の後征服された都市は、ことごとく破壊・略奪・殺戮され、女性も戦利品として王侯・軍隊などの権力者以下にあてがわれた。世界各地の男性のY染色体を調べた結果、かつてのモンゴル帝国の版図に高率で、共通の染色体が検出されたという話さえある(ブライアン・サイクス著『アダムの呪い』参照)。ただこれに関しては、モンゴル帝国以前からシルクロード一帯で勃興・滅亡を繰り返していたと言われる遊牧騎馬民族の西進がもたらした影響を割り引く必要がある。もっとも、チンギス・ハーンの妻であったボルテも、メルキト部に捕らえられた際に強姦されて、息子ジュチを妊娠したと考えられている。
その後、モンゴルは北へと退却し、中華は漢民族に奪回された、大ハーンのトグス・テムルの妃は美女で知られたが、明の捕虜となると、将軍の藍玉に強姦され、自殺に追いやられた。モングル人の若く美しい女性たちは犯され、売春宿へ送られた。明代をとおして、モンゴル族の部落の少女たちが代々官妓として売春宿で働かされていたと伝えられる。
高麗では忠恵王が暴君として多くの女性を強姦し、先王妃慶華公主(元朝の皇女)もその被害にあった。
明の永楽帝は靖難の変で建文帝から帝位を奪った後、「永楽の瓜蔓抄」と呼ばれる悪名高い虐殺を行ったが、その際に多くの反対勢力の人物の一族の女性を陵辱させたといわれる。『奉天刑賞録』の「教坊録」には「永樂十一年正月十一日,本司鄧誠等於右順門里口奏,有奸惡齊泰的姐並兩個外甥媳婦,又有黄子澄妹四個婦人,毎一日一夜,二十條漢子守著,年小的都懷有身孕,除夕生了小龜子」とあり、齊泰ら建文帝の忠臣の娘たちを性妓とし、二十人の男に昼夜を問わず嬲らせたことがわかる。そのうち年若かった彼女たちはすべて妊娠した。
明の滅亡の際にも、統制のとれない李自成軍は首都陥落時に大規模な強姦を行ったといわれる。懿安皇后張氏や陳円円が被害にあった。平陽烈婦のように、地方反乱軍による被害もあった。また、朝鮮も清の侵略の際に多くの女性が強姦された。17世紀前半の丙子胡乱の敗北後、50万人もの若い女性を貢女として差し出すこととなり、彼女たちは中国人に性奴隷として弄ばれた。王族からも複数の王女が性奴隷として差し出されている。義順公主は、16人の侍女や女医たちとともに、清の皇族ドルコンの妾とさせられた。その後、ドルコンが大逆に問われると、奴婢に落とされ、彼女たちは別の皇族に犯されることとなった。
清に歯向かった少数民族の少女・皇仙娘娘が敗北後、囚われて男性凶悪犯と同じ牢に入れられて多くの辱めを受けたように、反逆した少数民族女性への扱いは過酷だった。
義和団の乱が起きると、西欧列強の兵士たちは北京で数千人もの中国人の若い女性・少女を強姦してまわり、自殺者が絶えなかったという。義和団の指導者の一人だった二十代後半のカリスマ女性・林黑兒もレイプされて殺されたと言われている。
日本[編集]
詳細は「日本の強姦の歴史」を参照
古代日本にも強姦の概念は存在し、飛鳥時代、斎王(高貴な巫女)の夢皇女と菟道皇女は強姦されて処女を失った。奈良時代には、藤原仲麻呂が敗死した後、娘の藤原東子が1000人の雑兵に輪姦されたという伝承が伝わる。また、朝鮮へ遠征に行った将軍の妻、甘美媛は現地の路上で強姦(「奸」)されるという悲劇にあった。
平安時代の日本では、『道吉常の妻である仁町や、貴族・藤原惟通の未亡人が強姦されたことが知られる。また、平貞盛の妻は美しい女性だったが、平将門に夫が敗れると捕虜になり、裸に剥かれて多くの兵に犯された。
また、源義仲の軍勢は平安京で多くの女官を含む女性たちを強姦するという蛮行を行った
一方で、戦乱が関係なくとも、鎌倉時代には、後深草院二条という貴族の少女が多くの男性に強引に犯され妊娠してる[22]。
戦国時代には、笠原清繁夫人や大阪の陣の大阪方の女性など、乱妨取りで多くの女性が強姦された。
江戸時代においても、江戸の町では、夜道で強姦が絶えなかった。また、混浴の浴場では若い娘が男に襲われて妊娠することがあった。
身分の高い女性でも、唐橋という公家の美しい娘は、将軍の侍女でありながら徳川斉昭に手籠めにされ妊娠。失意のうちに実家に送り返された。
幕末の戊辰戦争においても混乱の中で大規模な強姦が行われており、会津若松城下神保雪子などの女性が被害を受けた[23]。
幕末期の女性医師楠本イネやイネの異母妹の少女・楠本松江、イネの娘の楠本高子など、一族揃って強姦されて妊娠した事例もある。
1908年 (明治41年)に、幸田ゑん子という美人の若い人妻が強姦されるという事件があり、「出歯亀」の語源となった。第二次世界大戦では日本人・中国人のいずれにも多くの強姦犠牲者が出ている。
現代の世界と日本[編集]
社会のなかの強姦[編集]
中国では、文化大革命のなか美人女優、孫維世が投獄され、彼女は同室の男性囚人に輪姦された[24]。衰弱死した彼女は、最期には手枷と足枷以外なにも身につけていなかった。
1973年11月27日に、インド・ムンバイの病院で発生した強姦事件では、病院に勤務する女性看護師が被害に遭った。看護師はその際意識を失い、以後40年近くに渡って意識を取り戻さないまま、2015年5月18日に死去した(参照)。犯人の男は7年間の服役の後釈放されている。近年でもインドではバスの車内における集団強姦が社会問題になり、大規模なデモが発生した[25]。日本人女性もしばしばインドで強姦されており、2015年には22歳の女子大学生が3週間にわたって監禁されて強姦された事件が発生した。
2020年の香港ではデモ参加者の若い女性が性暴力にあっており、民主の女神・周庭が拘束中に検査としてズボンを脱ぐことを強制されるなどセクハラを受けたと話した他、16歳の少女が香港警察に輪姦され、妊娠・中絶の憂き目にあったともいわれる[26]
日本では、女子高生コンクリート詰め殺人事件などの未成年強姦殺人で少年という壁が問題視される。バッキー事件のようなAV業界による強姦事件も存在する。福田和子らが被害者となった松山刑務所事件など、刑務所内強姦も存在する。尊属殺法定刑違憲事件のように近親姦の問題もある。また、スーパーフリー事件、京都大学アメフト部レイプ事件、慶應大学医学部レイプ事件など、大学生による強姦事件が起きている。施設内においても恩寵園事件、埼玉児童性的虐待事件、和歌山少年暴行事件など性的暴行事件が起きている。
近年では性暴力被害者のワンストップ支援センターなどの整備も進んでいる。
一方、大阪市強姦虚偽証言再審事件や鹿児島市17歳女性強姦事件のように、被害者側の曖昧な証言や虚偽の証言に基づいた不公正な捜査により発生したとみられる強姦冤罪事件も起きている。
戦争と強姦[編集]
現代の日本において、沖縄県をはじめ、米軍に所属する将兵による強姦事件が多発している(jawp:占領期日本における強姦)。終戦後には多くの女性・少女が犯され、妊娠することが絶えなかった。1996年でも、沖縄米兵少女暴行事件で12歳の少女が米兵に輪姦された。
そして第二次世界大戦の後も、戦争に強姦はつきものだった。ベトナム戦争中、アメリカ軍兵士によるベトナム人女性の強姦、買春も多発し、混血児が多数存在している。また韓国軍兵士からの強姦被害によって多数の混血児(ライタイハン)が生まれ、問題になっている。
民族浄化の手段としても、しばしば強姦は用いられる。1990年のクウェート侵攻でイラク軍がクウェート女性を襲い、1994年にルワンダでフツ族軍がツチ族女性を襲うなどの事例も発生している。1991年から1995年のボスニア紛争では、セルビア人民兵がムスリム人女性を強姦していた。ボスニア紛争では、捕らえた女性たちを収容所に入れて組織的に強姦しており、妊娠後、中絶が不可能となるまで解放しなかったという。イスラム国では組織的に少数民族の女性に対して、性暴力を行っていることが知られる。2018年にはイスラム国の性奴隷として強姦されていたナディア・ムラドがノーベル賞を受賞している。
脚注[編集]
- ↑ 「創世記」34章
- ↑ 「サムエル記下」13章
- ↑ サムエル記下20章
- ↑ 「士師記」19章
- ↑ 「士師記」19章
- ↑ 『変身物語』
- ↑ オウィディウス『変身物語』12巻
- ↑ 森村宗冬「アーチャー 名射手の伝説と弓矢の歴史」
- ↑ イーリアス、土井晩翠訳 青空文庫
- ↑ 『イーリアス』1巻、2巻、9巻、19巻
- ↑ A.K. Sharma Prophecies & Predictions.1993.p18
- ↑ 『ローマ市建設以来の歴史』1.4.2.
- ↑ 『ローマ市建設以来の歴史』1.4.2.
- ↑ 『ローマ市建設以来の歴史』1.4.2.
- ↑ オウィディウス『祭暦』3.11-24
- ↑ ハリカルナッソスのディオニュシオス、またプルタルコス。
- ↑ タキトゥス「年代記」14.31
- ↑ a b c d 『図説死刑全書完全版』127頁
- ↑ エドワード・ギボン; 朱牟田夏雄訳 『ローマ帝国衰亡史〈5〉第31‐38章―アッティラと西ローマ帝国滅亡』 筑摩書房、1996年。281頁。
- ↑ 『列女傳』:「闔閭勝楚,入厥宮室,盡妻後宮,莫不戰慄,伯嬴自守,堅固專一,君子美之,以為有節。」
- ↑ 後漢書列女伝「文姬為胡騎所獲,沒於南匈奴左賢王,在胡中十二年,生二子」、蔡琰別伝「漢末 大いに亂れ、胡騎の獲ふる所と爲り、左賢王の部伍の中に在り」
- ↑ 『とはずがたり』。
- ↑ 中村彰彦『幕末会津の女たち、男たち』文藝春秋、2012年。
- ↑ 『歴史を彩った性豪セックス列伝』
- ↑ 古代インドにおいて、仏教の伝説では龍樹が透明人間となって、宮殿の美女をつぎつぎと強姦したとされる。
- ↑ 逮捕された16歳の少女、香港警察に集団レイプされ中絶手術受ける=香港メディア
関連資料[編集]
- 『強姦の歴史』ジョルジュ・ヴィガレロ
- 『レイプ 踏みにじられた意思』スーザン・ブラウンミラー
- 「 略奪と陵辱 : 性・所有・共同体 I 」足立信彦