長宗我部元親
長曾我部/長宗我部 元親 ちょうそかべ もとちか | |||||||||||||||||||||||||||||
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長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか、1539年?月?日-1599年7月11日)とは、安土桃山時代に活躍した土佐国の戦国大名及び長曾我部家21代当主である。初めて四国を統一した人物であり、四国一の槍の使い手。
生涯[編集]
1539年、岡豊城にて出生。幼少の頃は肌が白で性格は大人しく、軟弱な性格から「姫若子」と皮肉られていたと伝わる。いつも城の隅に引きこもり、本しか読んでいない子だった。しかし当時、一条氏や河野氏、三好氏などの大名家が揃い、囲まれている長曾我部氏は非常に不利だった。
1560年、長浜の戦いで初陣を飾る。が、大将であったにもかかわらず、槍の扱いに慣れていなかった。しかし戦は大成功。[1]その後、1ヶ月後に父がこの世を去ると、長曾我部家の当主となった。
当主になり15年の間に、
を平定、ついに一条氏を滅ぼし(四万十川の戦い)、1575年に土佐を統一した。その後は東部の本州で力を猛烈に強めていた織田信長と同盟、三つの国に侵攻した。1578年に三好氏を制圧、1581年頃から河野氏も集中攻撃、1584年頃からは十河氏も攻撃した。これにより十川氏から貰った白地城を居城とする事になる。これにより四国統一への夢は大きく近づいた。
信長はこれに恐怖を感じたのか、1582年に四国征伐を試みるが本能寺の変により死去。そして1585年、河野氏の領地である伊予国を制圧、ついに四国を統一した。
が、その安堵も長くは続かず、明らかに「統一」の規模が大きい者には敵わなかった。天下統一も目前と迫った豊臣秀吉は四国へと侵攻、10万[2]の軍勢に元親は圧倒された。元親は秀吉に降伏、服従した。その後は土佐のみ与えられ、1587年には九州平定に参加。翌年に元親は高知城に居城を移転した。
秀吉の天下統一から1年、1590年からは文禄の役に参加。1596年にはサン=フェリペ号事件に対処した。1599年、伏見にて急死。享年60。
跡を4男の盛親が継承し、翌年に関ヶ原に参戦、西軍についたが敗戦して改易。そして1615年には大坂の陣で浪人の身で豊臣方について敗れ、捕らえられで斬首となり、長宗我部家の嫡流は断絶した。
長曾我部の傭兵団である一領具足は、江戸幕藩体制下で下士として冷遇されて一部は尊皇思想を持ち、幕末の倒幕の原動力となった。