寛政の改革
寛政の改革(かんせいのかいかく)とは、江戸時代後期の天明7年(1787年)から寛政5年(1793年)にかけて老中・松平定信によって行なわれた幕政改革である。享保の改革や天保の改革と並んで、江戸幕府の三大改革に数えられる。
概要[編集]
寛政の改革の前段階[編集]
天明6年(1786年)に第10代征夷大将軍・徳川家治が死去したことにより、後ろ盾を失って反田沼派の反発を受けた田沼意次は老中を罷免されて失脚した。これにより田沼時代は終焉し、天明7年(1787年)には家治の養子である家斉が第11代将軍に、反田沼派の中心人物であった松平定信が老中に就任した。定信は田沼派を幕府内から一掃すると、家斉が未だ15歳と若年だったことから幕政の実権を掌握して幕政改革を実施した。これを寛政の改革といい、田沼時代に弱体化した法権支配の強化をはじめ、農村復興、綱紀粛正、幕府財政の再建などを目標とした。
改革の内容[編集]
寛政の改革はわずか6年ほどでしかなかったが、幾つか重要な施策が行なわれている。これらは幕末の動乱期に入るまで続けられた。
- 棄捐令 - 寛政元年(1789年)発令。長引く不況などから旗本・御家人は借金などで生活が苦しくなっており、その救済のために幕府は札差(蔵宿)に6年以上前の借金は帳消しとする命令を出した。
- 囲米 - 寛政元年(1789年)発令。天明の大飢饉など災害が相次いだことから、幕府は災害対策のため諸藩に対して1万石につき、50石の籾米の貯蔵を命じた。これは松平定信が白河藩で行った施策を諸藩に浸透させたものである。
- 人足寄場 - 寛政2年(1790年)設置。火付盗賊改方長官の長谷川平蔵と中沢道二により立案され、軽犯罪者や浮浪者、無宿者などを保護し、計画的な貯蓄や職業訓練を受けさせて更生させることを目的に、江戸石川島に設置された。現在でいう職業訓練所施設のようなもので、世界的にも先進の更生施設とされる。
- 旧里帰農令 - 寛政2年(1790年)発令。江戸で定職を持たない農民を故郷に帰農することを奨励させる命令。
- 七分積金 - 寛政3年(1791年)発令。7割を江戸町会所に、2割を地主の所得に、1割を各町内で積み立てるといういわゆる災害対策に備えての積立金。
- 寛政異学の禁 - 寛政2年(1790年)発令。いわゆる江戸幕府による出版・思想統制令で、幕府公認の学問は朱子学のみとした。そしてこれに逆らったり、あるいは叛いていると見なされた者は徹底的に弾圧された。林子平、山東京伝などはこの禁令で処分されている。
結果[編集]
これらの改革には一定の効果があった。しかし、寛政異学の禁など厳しすぎる引締め策は次第に多くの人の反発や不満を生み、棄捐令で借金救済された幕臣からも札差から融資拒否のしっぺ返しに遭い同じく反発された。「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと揶揄される落首も作られるほどであった。
結局、寛政の改革は6年で終了を迎えた。ただし、定信の失脚後も定信によって抜擢された老中の松平信明、牧野忠精ら寛政の遺老と称された面々によって幕政は寛政の改革の方針を受け継ぐ形で運営されていき、大御所政治においても家斉の親政が行なわれたものの、基本的にはこの改革方針がそのまま受け継がれて幕末にまで至っている。
尊号一件[編集]
寛政の改革の最中、幕府・朝廷でほぼ同時期に問題が起きた。尊号一件である。朝廷では第118代天皇・後桃園天皇が安永8年(1779年)に22歳の若さで崩御。この若さのため跡を継ぐ皇子がおらず、やむなく傍系から養子を迎えて第119代天皇・光格天皇が誕生する。光格天皇は傍系の出自だから当然、父親は天皇では無く、待遇の低い一皇族(閑院宮典仁親王)であった。このため、光格天皇は父親に対して、後高倉院の先例に倣い、太上天皇の尊号を贈ろうとした[注釈 1]。しかし、前述のように朱子学を尊重した松平定信はこれを拒否する。一方、幕府でも同じような問題が発生。家斉は家治の養子であったから直系ではなく傍系であり、実父の治済は征夷大将軍になってはいない。そのため、家斉は治済に対して大御所の尊称を贈って将軍同様の立場にしようと画策した。
実は松平定信は徳川御三卿の一つである田安徳川家の出身で、一橋徳川家の出身である治済・家斉父子より家格は高く、第11代将軍になれる資格は十分にあった。しかし田沼時代、田沼意次の弟を家老に登用し、意次と協調した一橋家に対して、田安家は2代当主から嫡出の後嗣が生まれず、田沼家の思惑から幕政の主流から外れていて冷や飯を食わされており、そのため久松松平家に養子に出され、御三卿から放逐された定信は将軍になることはできなかった。この理由から定信は治済・家斉父子とはかならずしも仲が良かったというわけではなく、また朝廷の尊号に既に反対している立場から、足利義視に准三后が贈られた先例があるにも関わらず、幕府の尊称問題にも反対の立場を取らざるを得なかった。結局、この尊号問題に加えて、改革での不評から支持を失った定信は、寛政5年(1793年)に老中を辞任せざるを得なくなったのである。
諸藩の寛政の改革[編集]
江戸幕府で寛政の改革が行なわれていた頃、各地の藩でも後世で功績とされた藩政改革が行なわれた。それらを簡単に記しておく。
- 細川重賢(肥後国熊本藩) - 緊縮財政、農村復興を中心に櫨の栽培に奨励、蝋の専売制の導入。藩校・時習館の設立。
- 上杉鷹山(出羽国米沢藩) - 「七家騒動」に端を発した譜代門閥勢力の反乱克服と身分を問わない有能な人材の登用。養蚕・製糸業の奨励(米沢織)、藩校・興譲館の再興、自身の倹約と飢饉時の粥食事による経費節減と危機克服。
- 佐竹義和(出羽国秋田藩) - 養蚕・織物などの国産品生産の奨励。銅山開発。藩校・明徳館(明道館)の設立。
- 秋月種茂(日向国高鍋藩) - 財政再建、出産指導と手当支給による児童福祉。藩校・明倫堂の創設。ちなみに高鍋藩は前述の上杉鷹山の実家で、鷹山も同母兄の種茂を「自分より藩政能力は上」と評している。
関連項目[編集]
脚注[編集]
- 注釈