ウィキペディア日本語版の歴史

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
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ウィキペディア日本語版の歴史(ウィキペディアにほんごばんのれきし)は、2001年5月20日、開設されたことで始まった。当時はローマ字表記で項目数も非常に少なかったが、2002年9月1日日本語表記に対応した。その後は、スラッシュドットジャパンでの報道などにより次第に発展していった。しかし、成長とともに荒らしなども問題となっていき、そのたびに方針ガイドラインも整備されていった。

詳細は「ウィキペディア日本語版#年表」を参照

テスト段階[編集]

ウィキペディア日本語版の歴史は、2001年3月20日まで遡ることができる。当時のドメインは http://nihongo.wikipedia.com であり、開設前であるからテスト段階ということになる。現在ではこのページはアクセス不能になっているが、インターネットアーカイブの記録から当時の様子を知ることができる。それによると、3月20日午後11時に12.88.163.xxxというIPユーザーにより投稿された版が記録に残る最古で、メインページに縦書きのメッセージを書き込んだ編集のようである。これがRoseparksという利用者により整備され、4月上旬には、メインページに簡単なウィキペディアの宣伝が書かれた状態になった。この段階で作られていた記事としては、「Nihongo No Funimekusu」がある。4月6日に初版が作成され、日本語の音素論についての記事であった。この段階では、プロジェクト関連文書は全く整備されていなかった。

正式開設後[編集]

2001年5月20日、ウィキペディア日本語版は正式な開設を果たす。9月13日には「Alan D」というページが作成されたが、これは現在でいう利用者ページのようなものだった。10月19日には、ところどころが日本語になったメインページが投稿されたが、不具合も起きていた模様である。12月以降、本格的な日本語表記のテストが始まったが、文字化けが多かった。2002年になると、本格的に「天文学」「日本語」といった基本的な記事の作成が始まった。7月24日、最初のプロジェクト関連文書である「Wikipedia:About」(現在のjawp:Wikipedia:ウィキペディアについて)が作成された。

日本語化[編集]

以下、日付は日本時間とする。

2002年9月1日、日本語表記に対応された。9月2日7時18分、4.65.85.30による最初のメインページへの投稿があった。当時、ウィキペディアはウィキディアと表記されていた。通常記事の最初の投稿は同日7時32分の「アンパサンド」だが、文字化けしていた。この記事に内容が追加されるのは2004年まで待たなければならない。また、サンドボックスも4.65.85.30により、9月2日7時59分に作成された。9月11日、最初のアカウント利用者Brion VIBBERが活動を開始し、ローマ字の旧ウィキからの記事の移転を行った。同日、IPユーザーにより最初のインターフェースLanguageJa.phpが作成された。9月27日には2人目の利用者Aoinekoが活動を開始した。

無名時代[編集]

2002年10月はあまり発展が見られなかった。この月活動を開始したのはXaosのみであった。11月6日Hijiriが活動を開始した。この日、メインページが現在の記事名になった(それまでは英語表記だった)。11月8日から11月13日にかけて、AoinekoとHijiriはHijiriの会話ページでインターフェースについて話し合いを行った。11月18日にはU uが、11月19日にはEuskeが活動を開始した。12月7日、Brion VIBBERにより記録に残る最初の削除(Linux)の削除を行った。なおこのときに作成されたjawp:Wikipedia:削除記録/過去ログ 2002年12月は、タイムゾーンが協定世界時でも日本標準時でもなく、太平洋標準時となっていて、まだ具体的な方針がなかったことが伺える。12月17日Tomosが活動を開始した。Tomosは前述の「ウィキピディア」という表記に疑問を呈した。その後Tomosは編集の仕方をまとめたページの整備などを行った。また、2002年の12月20日にはTtanabeが、2003年1月24日にはPatrickが利用者登録を行った。この段階で利用者は投稿記録なしの者も含めて12名、知る人ぞ知る存在だった。

初の日本語メディアでの紹介と急速な発展[編集]

年が明けた2003年1月28日に、ウィキペディアがWired Newsで紹介された。これは日本語メディアで初めての紹介だった。これを機にウィキペディア日本語版は急速に有名になり始めた。1月30日、表記は「ウィキペディア」に修正された。1月31日には4人もの利用者が活動を開始した。同じ日、Tomosはjawp:ウィキペディアへようこそや井戸端を作成した。翌2月1日に、Tunabayが利用者登録を行った。2月2日には、Tunabayはjawp:Wikipedia:方針とガイドラインjawp:Wikipedia:色の使用は控えめになど、数多くのプロジェクト関連文書を作成した。翌2月3日にはjawp:Wikipedia:ページの改名jawp:Wikipedia:記事どうしをつなぐなどがTunabayにより作成された。これを受けてか、2月4日にはTomosがプロジェクト関連文書についての解説ページを多く作成している。この3日間にはメインページも数十回編集され、プロジェクト関連文書や、最近の出来事、各分野への入り口といった、メインページの基本的な構成が整った。Yoshitaka MiedaGombe、それにG~jawikiなども2月初めに活動を開始している。プロジェクト関連文書の作成も一段落した2月5日ごろ、ページ数が500本を突破した。その後も順調に成長を続け、2月11日[1]には1000ページを達成した。これが2月12日に発表された。

スラッシュドット現象[編集]

1000ページ達成が発表された約4時間半後、そのことがスラッシュドットジャパンで発表された。同ページでは2月15日まで活発な議論が行われた。これによりスラッシュドット現象が起こった。同ページの作成から2月13日に日付が変わるまでの4時間足らずに4人もの利用者が活動を開始し、2月13日午前中には10人が活動を開始した。この中にはSuisuiも含まれる。また、2月16日には初めてノートページについての文書が作成された。2月19日には、jawp:Wikipedia:秀逸な記事が作成されたが、当時は投票による選考はなかった。初めて秀逸な記事になったのはjawp:形態素解析jawp:ヨハネス・フェルメールである。この頃の井戸端では、新規利用者によると見られる多くの質問を見ることができる。3月になると、管理者についても議論が始まった。その結果、3月17日にYoshitaka Mieda、G~jawiki、Tomos、Suisui、Gombeの5人が管理者に就任することが決定した。この間、3月5日には初めての削除依頼が提出された。3月23日には5000ページを達成した。

コミニュティの成長[編集]

4月26日メーリングリストができた。同じ頃、井戸端BBSもできた。これは、井戸端の肥大化に対応するためのものであった。6月15日には1万ページを達成した。このころから、ウィキプロジェクトもでき始めた。記事数は9月9日に1万、12月8日に2万に達した。11月には、管理者を増やそうという風潮が強まり、2004年1月までに新たに3人の管理者が就任した。この間、2003年末にはサーバーのトラブルがあったが、ジミー・ウェールズの寄付によりしのいだ。また、12月19日には投稿ブロックの方針が作成された。

安定期へ(2004年)[編集]

2004年には、マイルストーンが多くあった。2月9日には3万、4月1日に4万、5月26日に5万、7月18日に6万、9月7日に7万、9月29日に75000、10月24日に8万記事を達成した。しかし、記事の伸び率は少しずつ減っていき、安定期に入った。4月29日には今週の強化記事制度が始まった。一方で、2月29日には秀逸な記事の投票による選考が始まり、10月には月間新記事賞が誕生した。メインページも、9月1日にリニューアルされた。

2月17日には東京都秋葉原で初のオフラインミーティングが行われ、3月5日にはウィキマネーが導入された。5月には月間感謝賞ができるなど、利用者を称える取り組みが多くできた。一方の井戸端BBSは、投稿ブロックユーザーによる書き込みなど、本来の目的を逸脱した書き込みが増えたため、11月30日で新規書き込みの終了、12月31日を最後に閲覧もできなくなった。8月15日にはウィキポータルもでき、2004年はコミニュティにとっても転換の年だったと言えよう。また、10月30日にはjawp:Wikipedia:お知らせの前身(井戸端 (告知))ができた。管理者も、この年だけで28人が就任した。一方、4人は辞任した。立候補は、12月からは現在のようにサブページを作る方式になった。ビューロクラットは、3月6日にSuisuiとTomos、5月17日にG~jawikiとT. Nakamuraが就任した。

1月4日には免責事項が、2月20日には利用規約が作成された。1月28日には、jawp:Wikipedia:同じ記事への連続投稿を減らすが作成された。3月6日、保護の方針が作成された。他のプロジェクトとの連携の取り組みも盛んになり、12月4日にはウィキメディアニュースが設置された。

MediaWikiも、12月23日にアップグレードされ、削除や保護などの記録を手動で記入する必要がなくなった。

2005年[編集]

1月6日、サーバーのメンテナンスにより一時的に書き込みができなくなった。

前年の2004年に管理者が急激に増加したのに合わせ、権限行使の方針や管理者そのものについても考えられるようになった。1月10日には権限行使についての再検討の議論が始まった。jawp:復帰の方針が作られたのもこの時期のことである。削除依頼の件数の増加から、2月1日には依頼サブページで依頼する方式に変更され、7月19日には日別サブページができた。また、4月5日には管理者解任の方針の草案ができた。一方、利用規約は9月29日に廃止された。また、10月7日には初めてチェックユーザーが行われた。(対象者は最後通告)これを受けて11月15日にはjawp:Wikipedia:チェックユーザーの方針が作成され、12月24日にはローカルのチェックユーザー係として初めてKMTが立候補し、その後信任された。この他、この年には管理者14人、ビューロクラット2人が就任し、管理者9人が辞任、もしくは自動退任した。

コミニュティの成長は、この年も続いた。1月24日にはあいさつ同好会が誕生した。1月30日には在住地別の、2月9日には誕生日別の、3月28日には分野別、参加時期別、言語別のウィキペディアンのページができた。10月27日、免責事項が発効した。

当然、本分である記事の成長も盛んに行われた。2月11日には10万記事を達成した。3月には第壱回執筆コンテストが行われ、jawp:染色体説が優勝した。執筆コンテストは2011年まで毎年行われた。期間中の3月6日には査読依頼のページも作られた。5月20日には4周年を迎えたとの発表があった。6月10日には秀逸な記事の再選考が始まった。9月10日には14万記事、10月24日に15万記事を達成した。

2006年[編集]

1月8日半保護の試験運用が始まった。1月28日には、加筆依頼と即時削除の中間に入る制度として定期削除が提案された。定期削除は2月に入ると試験運用を開始したが、基準などの問題が多く、反対が高まり、2007年1月30日に廃案となった。2月5日には、GFDLのバージョンが1.2になった。3月17日には、jawp:Wikipedia:日本中心にならないようにが作成された。4月13日には、三大方針の一つである検証可能性が、4月26日には同じく三大方針の一つの独自研究の禁止の文書が翻訳された。5月25日には、スリー・リバート・ルールができた。9月8日には移動依頼ができた。9月10日にはjawp:Wikipedia:即時存続ができた。この年には管理者26人、ビューロクラット3人、チェックユーザー2人が就任した。一方、管理者3人が辞任した。

この年にあった記事の成長に関わる出来事として、まず、jawp:Wikipedia:珍項目1月8日に作成されたことが挙げられる。5月4日には選考制になった。2月26日にPortal名前空間ができた。ただし、ノートページの名前空間名にミスがあり、3月1日に修正された。3月24日には、2004年1月までにアップロードされたライセンスの表記がないメディアについて、削除するとしてライセンスの明記を促すテンプレートが貼り付けられた。記事はこのころには再び急速に書かれ始め、4月9日には20万記事、8月28日には25万記事、12月15日には30万記事と、次々にマイルストーンを記録した。1年の間に10万記事ごとのマイルストーンを2回記録したのは2006年以外に例がない。

この年にあったコミニュティの成長としては、まず、1月25日ユーザーボックスができたことが挙げられる。また、10月20日にはバーンスター騎士団が、同じ時期に自警団ができたが、いずれも百科事典編纂に関係ないものだとして短期間で廃止された。

2007年[編集]

1月6日jawp:Wikipedia:管理者の解任が方針となった。2月4日には、保護されている記事が自動的に特別ページに記録されるようになった。2月8日には、検証可能性なしや独自研究など、問題がある記事に対するテンプレートが新設された。6月から7月にかけては、多くのWikipedia名前空間の文書がHelp名前空間に移された。7月22日jawp:翻訳のガイドラインが作成された。8月24日には、「井戸端 (告知)」が「お知らせ」に改名された。9月28日には、jawp:Wikipedia:児童・生徒の方々へが作成された。この年には12人の管理者、3人のビューロクラット、2人のチェックユーザーが就任した。しかし、17人が管理者から外れ、特にSuisuiは9月17日に解任動議による初めての被解任者となった。

記事の執筆に関わることとしては、2月17日に統合・分割・改名の各提案ページが運用を開始した。また、3月には月間強化記事賞が始まった。3月24日にメインページの改訂が行われた。4月3日に35万記事を達成した。4月9日に、jawp:Wikipedia talk:サンドボックスが、それまでサンドボックス本体について話し合う場だったのが、ノートページでの投稿練習用に解放された。8月10日には40万記事を達成した。これを受けて、量だけでなく質も成長させようということで、10月から11月にかけて第1回秋の加筆コンクールが行われた。11月21日には新規記事の巡回システムができた。また、11月28日には秀逸な一覧が始まった。このような取り組みが進み、12月26日には45万記事を達成した。

コミニュティ関係では、3月にジミー・ウェールズが来日し、公開インタビューを受けた。

2008年[編集]

1月8日、屋外美術を被写体とする写真の利用方針ができた。また、3月24日には新規利用者の画像アップロードが禁止されるなど、不適切な画像のアップロード防止に向けた取り組みが進んだ。この年には管理者21人、ビューロクラット3人、チェックユーザー4人が就任したが、10人が管理者を退いた。

項目の執筆については、2月2日秀逸な画像がスタートした。(正式導入は3月25日)その後、6月25日には50万記事を達成した。10月から11月にかけて、第2回秋の加筆コンクールが行われた。

コミニュティの面では、1月14日に新規利用者の会話ページにウェルカムメッセージを貼り付けるBotが稼働を開始したことが大きい。これに伴いあいさつ同好会は存在意義を失い、4月1日に廃止された。

2009年[編集]

1月11日、即時削除の方針は満たさないが削除依頼にかけられれば確実に削除されるだろう記事を提案する提案削除の導入が提案された。2月6日には試験運用が開始されたが、定期削除から改善されておらず、安易な貼り付けや編集合戦が起こった。5月14日には、投稿ブロック中の利用者の自身の会話ページへの投稿を許可することが可能になった。また、原則として許可することも合意された。5月31日には、グローバルボットの受け入れが開始された。6月15日には、ライセンス更新が行われ、GFDLのみから、GFDLとCC-BY-SAのデュアルライセンスとなった。これに伴い整備・改訂しなければならない文書が膨大になるため、7月26日ウィキプロジェクト ライセンス更新が作成された。11月2日には初の管理者立候補キャンペーンが始まり、11月12日までに9人が立候補するなど、絶大な効果をもたらした。11月16日には分野別の免責事項4件が適用を開始した。これに伴いネタバレテンプレートを含む多くの免責テンプレートが廃止提案にかけられたが、なかなか議論は進まなかった。この年は、6人が管理者に就任したが、ビューロクラット・チェックユーザーの就任はなかった。また、9人が管理者権限を除去された。

記事はペースをやや落としながらも成長を続け、7月8日、60万項目に達した。9月27日には良質な記事がスタートした。11月8日には執筆・翻訳者の間で分からないことを教えあうなどする執筆・翻訳者の広場ができた。一方、今週の強化記事は完全に形骸化したことから12月28日に停止された。

2010年[編集]

2月1日、管理者立候補キャンペーンは終了した。開始からの立候補者は、12名を数えた。2月19日、提案削除は廃止された。4月7日、モバイル版のサイトができた。ただし、編集はできなかった。5月18日には、ノートページの名前空間名を「トーク」に変更するなどの名前空間名変更がされたが、投票の結果反対が多数になり、6月2日には元に戻された。同じ5月18日、後に版指定削除と呼ばれることになるRevision deletion機能が導入された。これについては5月21日までに、方針が決まるまでは使わないという合意が形成された。議論の後、6月27日には仮運用が始まった。なお、Revision deletionの訳語については、当時「秘匿」とされたが、投票の結果、11月21日に版指定削除に決定した。6月10日にはデフォルトのスキンがベクタースキンになった。8月16日には編集フィルターが有効となった。9月10日にはウィキプロジェクト用の名前空間「プロジェクト」ができた。この年、管理者には8人、ビューロクラットには1人、チェックユーザーに2人が就任した。しかし、10人が管理者ではなくなった。

記事関係の取り組みとしては、5月3日メインページ強化記事投票所が運用を開始した。新規記事の投稿ペースは低下を続けたが、9月1日には70万記事を達成した。

2011年[編集]

6月25日に終了した第7回執筆コンテストを最後に、二度と執筆コンテストは行われていない。10月から2012年1月にかけて、3年ぶりに第3回秋の加筆コンクールが行われたが、これもそれ以降は行われていない。

4月24日オーバーサイトが運用を開始した。最初にオーバーサイト係になったのは、8月9日Vigorous actionKa ska 98である。4月26日、多重アカウントに関するガイドラインが大きく改正された。8月15日存命人物の提案削除が運用を開始した。10月4日httpsによる接続が可能になった。11月10日ウィキラブが始まった。11月17日、管理者の機能の一部のみを使える権限である削除者巻き戻し者インターフェース編集者が導入された。この年、管理者10名、ビューロクラット5名、チェックユーザー4名、オーバーサイト3名が就任した。しかし、9人が管理者を退いた。

2月5日、東京でウィキペディア10周年記念イベントが行われた。

2012年[編集]

1月20日、削除者・巻き戻し者・インターフェース編集者の権限申請が正式化された。初めて削除者になったのは、1月31日に就任したアルトクール、初めて巻き戻し者になったのは1月30日に就任したOhgi、初めてインターフェース編集者になったのは1月31日に就任したWhymである。4月24日、存命人物の提案削除が廃止された。8月1日長期荒らしに対応するための即時版指定削除が運用を開始した。11月1日自動承認された利用者の要件が「アカウント作成から4日以上かつ編集回数が10回以上」に変更された。この年は管理者4人、ビューロクラット・チェックユーザー・オーバーサイト・巻き戻し者・インターフェース編集者各2人、削除者5人が就任した。しかし、管理者11人が解任・辞任・自動退任となった。

1月15日から3月31日まで、第一回出典をつけよう大会が行われた。記事の増加ペースはさらに小さくなったが、4月3日に80万項目を達成した。10月28日利用者サンドボックスへのリンクがガジェット化された。

2013年[編集]

2月1日、メインページの第3回改訂が行われた。3月7日ウィキデータ言語間リンクがウィキペディア日本語版で運用を開始した。7月24日グローバルアカウント化に伴い、ローカルでの利用者名変更依頼が廃止された。7月29日ビジュアルエディターのベータ版が使用可能になった。11月24日再出発の方針の草案ができた。この年、管理者2人、巻き戻し者3人が就任したが、削除者・インターフェース編集者・ビューロクラット・チェックユーザー・オーバーサイトの就任はなかった。また、管理者5人、削除者・巻き戻し者各1人が辞任した。

2月1日から3月31日まで、存命人物の伝記のみを対象とした、第二回出典をつけよう大会が行われた。

6月22日、東京都世田谷区で、日本初のウィキペディアタウンのイベントが行われた。

2014年[編集]

2月12日、日本で著作権が切れたがアメリカ合衆国ではまだ切れていない画像について、一定の条件の下、ローカルへのアップロードが可能になった。この年には、ビューロクラットによる利用者名変更権が、技術的にもなくなった。8月26日、削除者のファイル移動が可能になった。この年、管理者には2人が就任したが、その他のビューロクラット・チェックユーザー・オーバーサイト・巻き戻し者・削除者・インターフェース編集者への就任はなかった。また、管理者6名、削除者1名が退いた。

新規記事の作成ペースはさらに弱まりながらも、3月15日には90万記事を達成した。また、6月24日には、全てのネタバレテンプレートが廃止された。

2015年[編集]

1月18日、特筆性についての文書がガイドラインとなった。3月24日、ローカルの利用者名ブラックリストが廃止され、メタウィキメディアのものに統合された。4月10日jawp:Wikipedia:著作権で保護されている文章等の引用に関する方針が試験段階の方針となった。9月16日には、利用者名前空間またはそのトークページにあるリダイレクトの削除依頼提出先がjawp:Wikipedia:利用者ページの削除依頼に統一された。この年も、管理者には2人が就任したが、その他のビューロクラット・チェックユーザー・オーバーサイト・巻き戻し者・削除者・インターフェース編集者への就任はなかった。また、管理者4名が退いた。

9月12日ページ複製ガジェットが導入された。11月1日には、ウィキペディア・アジア月間が初めて始まった。

2016年[編集]

2月11日スリー・リバート・ルールがガイドラインとなった。5月11日、ビジュアルエディターが正式に導入された。IPユーザーも、5月18日に使用が可能になった。10月20日には、履歴複製依頼が廃止された。12月11日には、秀逸な記事の選出条件が、賛成率100%から75%以上に緩和された。この年、管理者3人、チェックユーザー1人、巻き戻し者2人、インターフェース編集者1人が就任したが、ビューロクラット・オーバーサイト・削除者への就任はなかった。また、削除者2人[2]、巻き戻し者1人[3]、管理者4人が権限を除去された。

記事の増加数は再び速まり、1月19日には100万記事に到達した。しかし、1月24日1月29日には2016年1月のウィキペディア日本語版における大規模荒らしが発生し、臨時管理者・巻き戻し者が任命され、記事数は一時的に100万を下回る[4]など、混乱が起こった。一方、記事の半分以上がスタブであった状況を踏まえ、4月には加筆大会が開催された。

1月24日には、ウィキペディア15周年記念のイベントが東京で開かれた。7月1日、月間感謝賞が感謝賞にリニューアルされた。9月9日には、ウィキマネーウィキバンクが廃止された。

2017年[編集]

1月27日、オープンプロクシブロック用のPxyBotが初の管理者ボットとなった。2月19日、特定版削除が非推奨となった。4月2日、色の使用についての文書が実に14年越しにガイドラインとなった。6月24日有償の寄稿の開示が方針となった。この年管理者になった人間は3人、チェックユーザーとオーバーサイト・巻き戻し者は各1人、インターフェース編集者は2人、削除者は3人で、ビューロクラットの就任はなかった。また、削除者1人、管理者5人が退いた。

5月3日、秀逸な記事のアイコンが変更された。

3月1日jawp:Wikipedia:自己紹介が廃止された。3月3日にはjawp:Wikipedia:プレスリリースも廃止され、この年はコミニュティにおける大転換の年となった。

2018年[編集]

2月6日までに、アカウント作成の速度制限が適用されないアカウント作成者がビューロクラットにより付与可能になった。これに伴い、6月10日に権限申請のプロセスが整備された。最初にアカウント作成者になったのは、ビューロクラット裁量により権限が付与された4月22日から4月24日までのさえぼーである。正式なプロセスを踏んだ者としては、6月23日から7月15日までのAraisyoheiである。また、8月18日には、CSSやJSなどの編集権限を管理者やインターフェース編集者から切り離したインターフェース管理者が運用を開始するなど、この年は権限関係の動きが多くなった。それ以外の動きとしては、6月16日には、問題行為のあったページ名を入力するかどうかで利用者への警告テンプレートを使い分ける必要がなくなった。この年は、管理者・ビューロクラット・チェックユーザー・オーバーサイト・削除者各1人が就任したが、巻き戻し者とインターフェース編集者の就任はなかった。また、削除者2人と管理者3人が退いた。

記事の増加ペースは再びゆっくりになったが、3月22日に110万項目を達成した。

2019年[編集]

1月30日以降、最上位のカテゴリの整理が進んでいる。管理者4人が自動退任。1人が新規に就任。

2020年[編集]

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2021年[編集]

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2022年[編集]

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2023年[編集]

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脚注[編集]

  1. jawp:Wikipedia:発表/1000ページ達成には2月12日とあるが、実際には1000本目のページjawp:1980年代が作成されたのは2月11日夕方である。
  2. うち一人は管理者就任による
  3. 管理者就任による
  4. 荒らしは、ページ内容を"ayy lmao"などのみにする荒らしだった。内部リンクがない記事は、記事数にカウントされない。
ウィキペディア関連
概要 ウィキペディア - ウィキペディア日本語版 (歴史) - ウィキペディアン - ウィキペディアと学者 - ウィキポリス
文化
記事 特筆性 - 独自研究 - 要出典 - NPOV - 秀逸な記事 - ケースD 重複記事 - 完璧な記事
コミュニティ コミュニティを消耗させる利用者 - 対話拒否はやめてください - 裁量ブロック - ウィキペディア化 - ウィキペディアの投票 - 依頼者票 - 自警荒らし
主義 包摂主義 - 削除主義
問題 C♯のウィキペディアでの表記揺れの現状 - 脚注過剰 - ジオシティーズ危機 - こっちのほうが手っ取り早いから即時削除 (ウィキペディアの問題) - ウィキペディアの寄付バナー問題
その他 ウィキペディアのどうでもいい与太話 - ウィキペディア日本語版の「ルールすべてを無視しなさい」 - 偶然短歌 - よみもの:正直者が馬鹿を見る - 履歴精査 - エンペディアからウィキペディアへの移入 - 削除依頼 (ウィキペディア) - ウィキペディアンが一般人に言いたい事 - Wikipediaあるある
参考 カテゴリ:ウィキペディア