1183年
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1183年(せんひゃくはちじゅうさんねん)は、1100年代の83年目のことであり、日本の元号では寿永2年である。ただし源氏政権側ではこの元号は使用されず引き続き治承7年が用いられた。日本の天皇は第81代天皇・安徳天皇であったが、平氏政権が安徳天皇を擁して都落ちしたため、後白河法皇により8月に後鳥羽天皇が第82代天皇として擁立され、ここに京都と西国に2人の天皇が並び立つ事態となった。
日本の出来事[編集]
- 2月 - 藤原俊成に『千載和歌集』を撰進させる。
- 5月 - 南宋の陳和卿が東大寺大仏の修補を開始する。源義仲が倶利伽羅峠の戦いで平維盛率いる平氏軍に大勝する。
- 7月 - 源義仲軍が京都に迫り、平宗盛が安徳天皇らを奉じて西国に逃れる(平氏の都落ち)。後白河法皇は平氏の都落ちに同行せず比叡山に逃れ、源義仲が京都に入る。筑紫安楽寺の多宝塔が上棟する。
- 8月 - 後白河法皇が平氏一門の官位とその所領500か所余りを没収し、源義仲に140か所余りを、源行家に90か所余りを与える。後白河法皇が後鳥羽天皇を践祚させ、2人の天皇が並立する事態となる。京都各地の寺社などに義仲軍の乱入が開始され、七条河原で兵士10名が斬首される。
- 9月 - 後白河法皇が源義仲に平氏追討を命じる。京都で義仲軍の狼藉が盛んに行なわれる。源頼朝が後白河法皇に対して源義仲に関しての訴えを行なう。
- 閏10月 - 備中水島において平重衡率いる平氏軍が源義仲の軍勢を破る(備中水島の戦い)。源義仲が京都に撤退する。
- 11月 - 源義仲が後白河法皇の御所である法住寺殿を攻めて焼き、法皇の側近を処罰する(法住寺合戦)。後白河法皇が源頼朝に上洛を求める使者を送る。源義仲が源頼朝に対抗するため平宗盛に和睦を求めるが、宗盛は拒否する。
- 12月 - 京都で治安が乱れて盗賊が横行する。顕昭が『古今集序註』を撰する。
- 月不明 - 日本人73名が北宋に漂着するが、助けを得て帰国する。