大内啓伍
大内 啓伍(おおうち けいご、1930年1月23日 - 2016年3月9日)は、政治家。衆議院議員(通算6期)、民社党委員長(第7代)、厚生大臣(第76・77代)などを歴任した。
経歴[編集]
東京都台東区生まれ[1]。実家は港区の雑穀問屋で[1]、東京・銀座の歌舞伎座の裏にあった割烹旅館「仙石荘」も営んでいた。1951年早稲田大学法学部卒業[2]。米国・エール大学に留学後、1953年右派社会党に入党[1]、政策審議会に入る[3]。1960年1月民主社会党(のち民社党)の結成に参加、政策審議会に入る[3]。1972年理論誌『革新』編集長[2]。「民社党のプリンス」と呼ばれ[1]、1976年12月の第34回衆議院議員総選挙に東京2区から民社党公認で初出馬し初当選。1979年民社党政策審議会会長。1985年4月塚本三郎委員長のもと民社党書記長に就任。1986年7月の第38回総選挙で落選。非議員のまま党書記長の職に留まっていたが、1989年2月塚本三郎委員長がリクルート事件で引責辞任したことに伴い党書記長を辞任。1990年2月の第39回総選挙で返り咲き当選し、同年4月永末英一の後を受けて民社党委員長に就任。党の路線を社公民路線から自公民路線を変更したが、1993年7月に非自民7党1会派による細川内閣が成立すると、民社党を代表して入閣し厚生大臣に就任[2]。1994年4月に成立した羽田内閣でも厚生大臣に再任。小沢一郎新生党代表幹事らと社会党を除いた新統一会派「改新」を結成したが[4]、社会党が連立政権から離脱した責任をとり同年6月に民社党委員長を辞任[2][5]。羽田内閣総辞職に伴い厚生大臣を辞任。同年12月に民社党が解散すると、新進党には合流せず、新党「自由連合」を結成して総裁に就任[5]。1995年自由民主党に入党[6]、党東京都連最高顧問[3]。1996年10月の第41回総選挙(東京4区)、2000年6月の第42回総選挙(比例東京ブロック)に自民党公認で出馬したが落選し、政界を引退。2000年4月29日、勲一等旭日大綬章を受章。
2016年3月9日、肺炎のため東京都大田区の病院で死去、86歳[4]。同月29日、政府は大内を正三位に叙すことを決定した[7]。
人物[編集]
- 創価学会と対立する立正佼成会の全面支援を受けていた[8]。
- 1980年時点で富士社会教育センター常務理事[9]。
著書[編集]
- 『朝のこない夜はない――保革伯仲から連合時代へ』(富士社会教育センター出版局、1975年)
- 『われ、事に後悔せず』(大和出版、1995年)
出典[編集]
- ↑ a b c d 日本民政研究会編『国会議員総覧 1986年版』新評社、1986年
- ↑ a b c d ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「大内啓伍」の解説 コトバンク
- ↑ a b c 大内啓伍関係文書 憲政資料室
- ↑ a b 訃報:大内啓伍さん86歳=元民社党委員長、元厚相 毎日新聞、2016年3月10日
- ↑ a b 元民社党委員長の大内啓伍さん死去 細川内閣では厚生相 朝日新聞デジタル、2016年3月11日
- ↑ 旧民社党委員長の大内啓伍氏が死去 元厚相、86歳 日本経済新聞、2016年3月10日
- ↑ 故大内啓伍氏に正三位 時事ドットコム、2016年3月29日
- ↑ 日本経済新聞社編『「連立政権」の研究』日本経済新聞社、1994年
- ↑ 「赤旗」日曜版特別取材班「密着レポート 富士政治大学校のすべて」『今日の民社党――大企業擁護・軍事ファシズムの先兵』日本共産党中央委員会出版局、1980年、118頁