水谷長三郎
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水谷 長三郎(みずたに ちょうさぶろう、1897年(明治30年)11月4日 - 1960年(昭和35年)12月17日)は、政治家、弁護士。衆議院議員、商工大臣。愛称は水長(みずちょう)、フンドシ大臣。
京都府紀伊郡伏見町京橋(現・京都市)生まれ。京都帝国大学法学部卒業後、弁護士を開業。1925年農民労働党、1926年労働農民党の結成に参加。1928年第16回衆議院議員総選挙(第1回普通選挙)に京都1区から労働農民党公認で立候補し初当選。1929年労農大衆党、1930年全国大衆党、1931年全国労農大衆党、1932年社会大衆党の結成に参加。1933年京都市会議員。1936年第19回衆議院議員総選挙で6年ぶりに議席を回復、1960年11月の第29回衆議院議員総選挙まで11期連続当選。1940年反軍演説を行った斎藤隆夫の議員除名に反対し、旧社民系の代議士とともに社会大衆党を除名。勤労国民党の結成に参加したが、結社禁止。1942年の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)には非推薦で当選。戦後は日本社会党の結成を主導し、西尾末廣、平野力三とともに「結党三人男」と呼ばれた。片山哲内閣で商工大臣を務め、1947年臨時石炭鉱業管理法(炭鉱国家管理法)の制定に尽力。法案審議中、常磐炭鉱に褌一つで入坑し、労働者を激励した[1]。芦田均内閣でも商工大臣。社会党の分裂時は右派に所属。1960年1月民主社会党(のちの民社党)の結成に参加、国会議員団長となるが、12月に63歳で死去。