日本労働総同盟
日本労働総同盟(にほんろうどうそうどうめい)は、戦前の労働組合の全国組織。略称は総同盟。
概要[編集]
戦前の代表的な労働組合の全国組織。1912年8月1日に鈴木文治が会員15人の友愛会として結成した。友愛会は第一次世界大戦期を通して労使協調主義から労働組合主義の立場へと移り、1918年4月には120支部、会員約3万人にまで発展した[1]。1919年8月30日~9月1日の友愛会7周年大会で大日本労働総同盟友愛会、1920年10月3~5日の友愛会8周年大会で日本労働総同盟友愛会、1921年10月1~3日の友愛会10周年大会で日本労働総同盟へと改称した[2]。最初はサンディカリスト、ロシア革命後は共産主義者が勢力を拡大させるが、1923年5月の第一次共産党事件、同年9月の関東大震災、1925年5月の普通選挙法公布後は鈴木文治・松岡駒吉・西尾末廣ら社会民主主義派が台頭し、左右の対立が激化した。1925年5月に左派を除名(第一次分裂)、1926年12月に中間派を除名(第二次分裂)、1929年9月に大阪連合会内の左派を除名し(第三次分裂)、1926年12月に結成された社会民衆党と結びついた右派組合となった。
反資本主義、反共産主義、反ファシズムの三反主義を掲げ、1932年9月に中間派の全国労働組合同盟(全労)、日本海員組合とともに日本労働組合会議(日労会議)を結成。同年7月に社会民衆党も中間派の全国労農大衆党と合同して社会大衆党を結成した。1936年に全労と合同して全日本労働総同盟(全総)を結成し、1937年に日中戦争が勃発すると罷業絶滅宣言を発した。1938年に政府が産業報国運動を推進すると旧全労系は産報への一本化、旧総同盟系は労組と産報の二本立てを主張して対立。1939年に旧全労系は分裂して産業報国倶楽部を結成し、旧総同盟系は元の日本労働総同盟へと戻った。しかし政府の圧力に抗しきれず、1940年7月に自主解散へと追い込まれた。
敗戦後の1946年8月に右派の旧総同盟系、中間派の旧全労系、合法左派の旧全評系が合同し、日本労働組合総同盟(総同盟)を結成した。東交など戦前に反総同盟系とみられた側が「産報に抵抗して、最後まで労働組合主義を堅持した総同盟の実績を高く評価」し、総同盟の名称が復活した[3]。その後、総同盟の流れは1964年11月に全労会議と総同盟が一本化して結成された全日本労働総同盟(同盟)へと引き継がれた。
歴代会長[編集]
日本労働会館[編集]
1930年に友愛会結成の地であるユニテリアン教会・惟一館を買収し、翌年に日本労働会館とした。また建物を維持管理するために財団法人日本労働会館を設立した。現在、跡地には地上16階地下2階建の友愛会館が建てられており、8階で日本労働会館が友愛労働歴史館を運営している。友愛会系の民主的労働運動(友愛会・総同盟・同盟・連合)、社会民衆党系の社会主義運動(社会民主党・社会民衆党・日本社会党・民社党)などに関する資料が展示されている。
出典[編集]
- ↑ 友愛会 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
- ↑ 友愛会、大日本労働総同盟友愛会に改称し100年・大正8年8月30日! 友愛労働歴史館(2019年8月31日)
- ↑ 総同盟五十年史刊行委員会編『総同盟五十年史 第3巻』日本労働組合総同盟、1968年、43頁
- ↑ 「労働代表得票 第一候補は鈴木氏 同顧問は米窪、川村両氏【四日社会局発表】」『大阪朝日新聞』1924年4月5日付、神戸大学経済経営研究所「新聞記事文庫」