社会民衆党

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社会民衆党(しゃかいみんしゅうとう)は、1926年大正15年)に結成された右派無産政党。略称は社民党

概要[編集]

1925年(大正14年)12月1日、日本農民組合(日農)などが右派の日本労働総同盟(総同盟)、左派の日本労働組合評議会(評議会)を除外して農民労働党浅沼稲次郎書記長)を結成したが、政府に共産主義との繋がりを疑われ、わずか3時間後に結社禁止命令が出された。そのため翌1926年(大正15年)3月5日、日農、総同盟など10団体が左派を除外して労働農民党杉山元治郎委員長、三輪寿壮書記長)を結成した。しかし左派への門戸開放をめぐって対立が起き、10月に門戸開放決議に反対する総同盟や官業労働総同盟など5団体が脱退。12月5日、総同盟幹部の松岡駒吉西尾末廣らが独立労働協会安部磯雄堀江帰一吉野作造の呼びかけに応じるかたちで社会民衆党(社民党)を結成した。委員長は安部磯雄、書記長は片山哲。なお12月4日に総同盟から中間派の日本労働組合同盟(組合同盟)が分裂、12月9日に組合同盟が支援する日本労農党(日労党。三輪寿壮書記長。麻生久・浅沼稲次郎・河上丈太郎ら)が結成され、無産三党が鼎立した。

社会民衆党は総同盟、日本海員組合、官業労働総同盟などを支持基盤に反共産主義、反資本主義、反ファシズムの三反主義を掲げ、1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙(第1回普通選挙)では安部磯雄(東京二区)、西尾末廣(大阪三区)、鈴木文治(大阪四区)、亀井貫一郎(福岡二区)の4名の当選を果たした。ほかに菊池寛宮崎龍介赤松克麿岡崎憲、片山哲、吉川末次郎田万清臣米窪満亮小池四郎などが社会民衆党から立候補した。

1929年(昭和4年)9月に総同盟から労働組合全国同盟(全国同盟)が分裂したことに伴い12月に田万清臣ら全国同盟派が脱党、内部闘争で除名された宮崎龍介らがこれに合流し、1930年(昭和5年)1月に全国民衆党を結成した。7月に全国民衆党、中間派の日本大衆党無産政党統一全国協議会全国大衆党を結成、さらに1931年(昭和6年)7月に全国大衆党、労農党、社会民衆党の合同賛成派(三党合同実現同盟)が全国労農大衆党を結成した。

1930年赤松克麿が書記長に就任。1931年9月に満州事変が勃発すると、片山哲・島中雄三・小池四郎の3名の調査委員を満州に派遣し、12月に中央委員会が軍部の行動を追認する決議を発表した。満州事変を機に赤松克麿や島中雄三など国家社会主義を主張する赤松派が台頭するが、三反主義を主張する片山、鈴木、松岡、西尾らと対立し、1932年(昭和7年)4月15日の中央委員会で少数派となった赤松派が脱党した。松岡ら残留派はこうした国家社会主義や日本主義の台頭に対抗するため、1932年7月24日に中間派の全国労農大衆党と合同して社会大衆党(社大党)を結成した。委員長は安部磯雄、書記長は麻生久。なお松岡ら残留派も1932年4月22日の常任委員会で「ファッショ粉砕!」とともに「満蒙資源を社会主義解放へ!」のスローガンを決定するなど、満州事変そのものに対する批判の姿勢は弱かった。

社会大衆党は社会民衆党の三反主義を継承して支持を集めたものの次第に右傾化し、国家社会主義を志向する旧日労系と、社会民主主義を志向する旧社民系が産業報国会問題などで対立した。1940年(昭和15年)に旧社民系は反軍演説を行った斎藤隆夫の除名決議に反対したため、主流派の旧日労系により社会大衆党を除名された。同年5月7日に社会大衆党を除名された旧社民系の代議士らが勤労国民党の結成を届け出たが、即日結社禁止命令が出された。旧社民系は戦争政策に賛成したが大政翼賛会や産業報国会とは距離を置いたため、戦後公職追放を免れた。その流れは1945年(昭和20年)11月に社民系・日労系・日無系の3派が大同団結して結成した日本社会党の西尾派、1960年(昭和35年)1月に西尾派と河上派の一部が結成した民社党に引き継がれた。

関連団体[編集]

参考文献[編集]